こんにちは。札幌と筑波で蓄電池材料研究を行う工学系大学院生のかめ (M2)です。
タイトルの通り、学部四年次に海外雑誌投稿用の研究データを3週間でかき集めた経験があります。
この記事では、その壮絶な3週間の体験談を記します。
研究生活ならではのエキサイティングな要素がふんだんに詰まっておりますので、分野問わず、研究に携わる方に是非読んで頂きたいと思っています。
それでは早速始めましょう!
キッカケは指導教員からのひと言でした
ねぇねぇ、かめちゃん。今度論文書いてみない?
論文を書くに至るキッカケは、指導教員からのこの一言でした。
どうやら某海外雑誌が特集号(special issue)を発行するらしく、”特集号ならアクセプトされやすいから論文を出してみよう”と発案してくださったのです。
この提案を受けたのは、B4の10月のことであります。当時は(特集号?アクセプト?)とちんぷんかんぷんな状態でした。
しかし、事態を正確に理解していないのについつい悪ノリしてしまい、まるで居酒屋店員の如く
はい、喜んで!
と反射的に首を縦に振り仕事を引き受けちゃったわけであります。
もちろん指導教員は大喜びです。コレで自身の研究実績を一つ積めるとあって、「マジ?ホントにいいの(*≧∀≦*)?!」とハイテンションで私に何度も問いかけてきました。
そんな先生を見た私も大喜びです。この後地獄が待っているなどとはつゆ知らず、先生と私は2人してウキウキで投稿論文のテーマ決めに取り掛かりました。
実験内容は二代上の先輩がやり残したものの続きをすることに決まりました。
その実験の結果も自分のアタマで推定できるレベルでしたから、(論文用のデータはすぐ揃っちゃうな♪)と直感的にそう思いました。
私はB4の頃から今日に至るまで実験をつくばで進行させています。
というのも、研究で使用する実験機器が筑波の某・国研にしかない影響で、いくら実験をやりたくてもつくばに行かないと物理的に実験できないからです。
先生とつくばへ何週間滞在するか、その期間についてごにょごにょ話をしたのですが、二人とも『まぁ3週間もあれば余裕だろう』という見立てでおおよそ一致いたしました。
正直(3週間もいらないかなぁ)とは思いました。でも、つくばで何があるか分かりませんから、余裕をもって3週間行くことにしたのです。
ここでの決断には後ほど大変救われることになります。
最終週にてちゃんと伏線は回収されますので、どうかそれまで楽しみにしていただければと思います。
1〜2週目:めちゃくちゃ順調。(3週間も要らないじゃん♪)と余裕をぶっこく
つくばでの実験は順調そのものでございました。
実験の方針が既に明確に固まっていて、加えて何をどれぐらいやるべきかもおおよそ定まっていたわけですからね。
大概の研究は
- 何を研究しようか?
- どうやってその課題を解決しようか?
という風に、手を動かす前に頭を働かせる過程が非常に過酷で長いのです。
一方で私の場合、それらの思考活動は既に我が指導教員が済ませて下さりましたから、あとは私の持ち前のスタミナでもって膨大な作業をこなすだけだったのです。
私はまるでプレー前から一位でのゴールが約束された人生ゲームをプレーするが如く、毎日気分ノリノリで実験データを集積していきました。
やればやるほど実験セル作成の精度が高まり、得られるデータの美しさがどんどん上がっていくのを大変面白く感じました。
多少セル作りに失敗しても、(上手くいかない方法を見つけられたぞ!)とポジティブにとらえられました。
既にゴールがほぼ見えている状態ですから、(また次、頑張ろう)とすぐ気持ちを切り替えて前に進めました。
それに加え、今回の実験は電池系の実験ではありませんので、ドライルームという体中の水分を全部持って行かれる部屋ではなく、普通の実験室で実験を進められました。
おかげで体力消耗の度合いが桁違いに低く、それも相まって毎日楽に実験していけたのです。
2週目の終わりには早くもデータが出揃いました。
自分的には何かすごい発見をした気になってウキウキが止まらなくなっていたし、2週目の終わりに札幌にいる指導教員へデータを送ると「コレなら出してもOKだわ」と、論文化にGOサインが灯りました。
ハッキリ書きます。(3週間も要らねぇじゃん)って思っていました。
果たしてあと1週間、何をして過ごそうかな…?
と、早くも時間の潰し方を考え始めておりました。
そういえば私、休日も研究所でデータ解析をしていたんです。
だから(最終週で1日ぐらいサボってもばちは当たらないだろう)と考え、最終週の最終日にどこかへ遊びに出かけることに決めました。
しかし、そんな余裕は一瞬で立ち消え、この後私は地獄に叩き落されてしまいます。
もちろん遊びになんて行けません。向かう先は実験室、それも朝から晩まで籠りっぱなしの修羅場が私を待ち受けていたのです…
3週目の水曜日:奈落の底に叩き落とされる
最終週の水曜日、つくばでお世話になっている研究者のAさん(仮)にデータ報告する機会がありました。
そこで私は満面の笑みでもってこれまでの成果をお見せしたわけですが、途中からAさんは腕組みをして何やら考え始めたのです。
やばっ、もしかして何か失礼なことを言っちゃったかな…?
こう思い、私はすぐに「Aさん、どうかなさいましたか?」と事態を把握しようと努めました。
するとAさんは「いやいや、ちょっと疑問なんだけどね…」とパッと腕組みを解いたのち、私のデータで気になる箇所を指摘してくださったのです。
Aさんとのディスカッションにより、私の蓄積してきたデータが全て使い物にならないと分かりました。
というのも、求めた理論値を出す式において、私は間違った値を代入して誤った理論値を算出していたのです。
”じゃあなんで理論値と実験値が一致したのか”、このように頭で考えてみました。
すると、実験セルを作る過程で重要な前処理が抜けており、そのせいで想定より小さな電流密度(単位面積当たりの電流量)しかセルに印加できていなかったからだと分かりました。
要するに、間違いが2つ重なった結果、誤った理論値と誤った実験値が偶然一致してしまっていたのです。
それでもって私は(完璧なデータが出たぞ!)と大喜びしていたわけですが、実際には何もかもが違う滅茶苦茶なデータだったわけです。
事態を全て把握した時、私の顔面から一瞬にして血の気がサーっと引きました。
数分前まで(余裕やん♪)と口笛を吹いていたものの、時間を潰していられる余裕など全くなくなってしまったわけですから。
Aさんも「また論文を書く機会はいつでもあるから…」と、私に慰めのお言葉をかけて下さりました。
それはホントに有難かったです。しかし、今までの実験データがパーになった衝撃を何ら緩和してくれませんでした。
ここで諦めるか|最後まで粘って戦うか
目の前には2つの選択肢がありました。
その中で私が選んだのは、最後まで泥臭く戦い抜く後者の方の選択肢でした。
論文を出す絶好機が目の前に転がっている以上、それを易々と見逃すなんてどうしてもできそうにありませんでした。
加えて、先生が”アイツならデータを出してくれるだろう”と期待を込めてつくばへ送り出してくれたのですから、先生の期待を裏切りたくないし、むしろ(ここから這い上がって成果を出してやろう!!)とメラメラ闘志が沸き立ってきました。
水・木・金:夜9時退勤→朝6時出勤
そこからは地獄の3日間でした。
水曜に実験データの誤りが発覚したのちは夜9時まで研究所にて実験を行い、アパートに寝に帰って朝6時には再び研究所へと向かいました。
一度”やる”と覚悟を決めた以上は意地でもデータを出したかったし、そのためにはどんな手段でも行使しようと考えていました。
あまりにストレスをためすぎて心臓の脈が少しおかしくなったものの、それにすら構っていられないほど当時は切羽詰まっておりました。
正規のプロセスを経て実験セルを作ってみると、ソレから得られるデータは今までと全く別物でした。
実験値は真の理論値と大変よく一致しており、(最初からこの手順を踏んで実験していればなぁ…)と大いに後悔いたしました。
木曜の夜には必要な6個のデータのうち4個までどうにか取り切ることができ、この調子でいけば金曜の昼には実験を終わらせられる目途が立ちました。
ただ、そこからラスト2個のデータがなかなかうまく取れません。急に手先が狂い始めて高精度な実験セルが作れなくなったり、実験中に他の人がテーブルにぶつかった衝撃で測定が中断してしまったりと、ちょっとした不運が重なって実験の進度が急速に落ちてしまいました。
それでも諦めずに手を動かし続け、ようやく5つ目のデータが得られました。
そして実験室に誰もいなくなったのを見計らって6つ目のデータを取る実験を始め、それに関しては一発で綺麗なデータをGETできました。
最後のデータを取れた時、嬉しくてその場で飛び上がってしまいました。
水曜にデータが全てゴミになった時は(どうしようか、もう諦めちゃおうか)と思ったものの、勝負を投げ出さず闘い続け、勝ち切った達成感は本当に大きなものでした。
金曜の夜:終戦後、『俺の生きる道』でラーメンを啜る
データを全て集め切った旨を指導教員に報告し、十五の夜を歌いながら自転車にて寒空の下へと駆け出しました。
(何か旨いものが食べたいなぁ)と頭を巡らしておりますと、YouTubeのSUSURU TV.で美味しそうな二郎系ラーメンが紹介されていたことをふとしたタイミングで思い出しました。
いま一番食べたかったのが疲労を吹き飛ばしてくれる食べ物であり、二郎系ラーメンはその役目にお誂え向きだと感じました。
そこでつくば駅北の『俺の生きる道』へと自転車を飛ばし、肉厚チャーシューや極太の麵を心ゆくまで食べることに決めました。
18時30分ごろ店の前に着いた時、店外では10人ほどのお客さんが列を作って順番を待っていました。
気温もひと桁台と相当冷え込んでおりましたので、私も含め、みなさん白い吐息を漏らして震えながら立っておられました。
列に並び始めてから約40分後、ついに自分の順番がやってきました。
もうお腹ペコペコで死にそうでした。だから肉増しトッピングを追加で頼み、別皿でアブラもお願いしました。
5~10分ぐらい待っていると、目の前に巨大などんぶりが着丼しました⇩
匂いを嗅いだ瞬間に記憶が飛び、次に気が付いた時には全て食べ終わってしまっていました。
ここで食べたラーメンは、今までで食べたものの中で最も美味しいラーメンでした。
研究の辛い記憶が良い塩梅にラーメンを引き立たせるスパイスとなってくれ、胃もたれも吐き気も催さず最後まで美味しく食べられました。
最後に
学部四年次に海外雑誌投稿用のデータを3週間でかき集めた体験談はこれにて完結でございます。
この成果でもって学振DC1の内定を大きく手繰り寄せることができましたので、記事を記しながら(最終週の水曜日に諦めてしまわなくて良かったなぁ)と胸をなでおろした次第です。
この時の経験が薬となり、修士課程入学以降は実験前に実験条件の検討を入念に行うようになりました。
まぁ、できればこんな劇薬じゃなくてもっと優しめの薬が良かったのですが、この出来事を教訓とし、もう二度と同じ失敗をせぬよう注意していきたいと思っています。
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