命は動いていた。けれど、生きてはいなかった
2020年のはじまり、世界はつるりと声を失った。例のウイルスが猛威を振るい、ウイルス感染防止策がとられた。常時マスク着用。ソーシャルディスタンス。会話は控えめに。様々な制限が設けられた。
ウイルス騒動中は無気力だった。まるで植物状態になった気分。世界が止まった。音が消えた。時間だけが無為に流れた。カレンダーはめくられていくのに、心がどこかへ置き去りにされている。ただ生きているだけ。そこには、何の喜怒哀楽もない。
起きる。大学に行く。研究する。ご飯を食べる。研究する。家に帰る。ご飯を食べる。寝る。気が付いたときには一日が終わっている。起伏の無い日常。のっぺらぼうな人生。心臓と身体が動いているだけ。生きている理由が分からなくなった。果たしてこの状態を「生きている」と呼べるのだろうか。自分は生きているのか、生きながらにして死んでいるのか。
ウイルス騒動中、物事を考えるのに十分な時間があった。『生命』について、嫌になるほど思索を巡らせた。”命が続いていること”と”生きていること”とは同値ではない。今の自分は生きていない。死んでいる。魂が明後日の方向に抜け落ちた。他人との交流が絶たれた結果、自分の内奥に触れる機会を失った。
生きるべき理由を思い出せ。生の痕跡を大地に刻み付けろ。自らを奮い立たせても、身体は重く、心は鈍かった。朝は来る。日常が容赦なく襲ってくる。自分の中だけが空洞になって虚しい谺(こだま)を反響させていた。
生きる理由が、歩みを前へと押し出す
ある日ふと、外の光に目を細めた。遠くで小さな笑い声がする。微かなざわめきが、沈黙していた内側を揺らした。息を潜めていた感情がまだ胸のどこかに生きていたと知った。自らにそっと問いかけた。「何のために生きるのか」「どのようにして痕跡を刻めばよいのか」と。
自分なりの結論を見出した。
人生とは、足場のわからない闇を、手探りでまさぐりながら歩く行為。どこかで胸の奥を揺らす光と出会い、ぼやけていた自己が輪郭を帯びていく営み。生きているとは、ただ存在することでは足りない。朝、わずかな理由を抱いて身体を起こす。人波に逆らいながら満員電車へ踏み出す。隣にいるパートナーの痛みを自らの傷のように背負う。心が前へと動きたがる。その衝動こそが生の証。
ウイルス騒動で人との交流が失われた。自分の存在を誰にも必要とされなくなった。生きている理由が分からなくなった。身体は健康。ぴんぴんしている。研究環境だってそこそこ恵まれている。大地に立つ理由を失えば、生は空虚なものとなる。
ウイルス騒動下でも活き活きとしていたのは、生きるべき理由に突き動かされていた人間だった。日々がどれだけ悲惨なものであろうとお構いなし。彼らは胸の鼓動で生きているのではない。意志を燃やして生命力に変えている。逆境であればあるほど心が燃え立つ。辛さを武器に、喪失感を疾走感に換えて、まるでパンデミックなど無かったかのように飄々と立っている。
どんなに辛くても、人は前に進める。「進みたい」という感情が胸に灯る限り、生は前へ、上へと向かっていく。心が揺れる。次の瞬間、何かを掴もうとする意志が生まれる。衝動に従って走る。そこで初めて世界に色が戻ってくる。夢中になれる何かを見つけたとき、人は「生きている」と感じる。日々の中に自分だけの意味を見出す。思いの強さに背中を押される。歩幅が重さを帯びはじめる。
生き甲斐は、移ろいに寄り添う伴走者
2023年3月、マスク着用義務が解禁された。ウイルスの感染症部類も格下げになった。騒動の夜明けが訪れた。人の顔が見える。笑顔を観察できる。人間らしい毎日が戻ってきた。
大学入学後から趣味でランニングをやってきた。ウイルス騒動前まで、マラソン大会で自己ベスト更新を目指していた。騒動が明け、レースが再開した。タイムアップを目標に日々汗を流す。大地を蹴り、吐息を荒くする。夏は陸上競技場でインターバルトレーニング。練習後にホースで水浴び。朝日を感じながら「生」の実感を得られた。
生き甲斐が戻ってきた。毎日の彩りが帰ってきた。研究が順調に進まなくても、朝、胸に火種が残っていると感じられた。それだけで足取りが少しだけ軽くなった。自分は生きていても構わない。生存の根拠を見出した安心感。生きているのを誰かに認めてもらえたような心強さ。
博士課程二年次の11月、福知山マラソンで2時間42分を記録した。翌年4月から会社員生活がスタート。生の輪郭が曖昧になり、足元が霞む感覚に包まれた。生の上に力強く立脚している昔と同様の感覚がない。不安になった。目の前の研修に意識を向けてみた。何ひとつ掴めなかった。視界がますます朧気になる。充実していた昔の日々と比べ、色彩があまりに少なかった。
いつの間にかランニングが生き甲斐ではなくなっていた。知らず知らずのうちに、心がランニングを手放していた。昨日心を動かしたことが、今日の自分には響かないこともある。今の自分にとって大切なものは何か。手札を俯瞰する。ひとつずつ没頭してみる。
会社員になってからはサイト運営が生き甲斐になった。自分の知見を誰かに活かしてもらえるのが嬉しい。誰かの役に立てるのが幸せ。文字をスクリーンに刻み付けるのが快感。文字をスクリーンに打ち込むとき、思考の全部がきしんで火花を散らす感覚がたまらない。平日は通勤前と退勤後にそれぞれ2時間ずつサイト運営に割いている。週末は6~7時間はサイトをいじっている。
生き甲斐に定住の地はない。心の風向きに合わせて居場所を変えてゆく漂泊の旅人である。私がランニングからサイト運営に軸足を移したように、時間とともに揺らぎ、形を変え、時には失われ、また時には新たに現れるもの。生き甲斐とは、「育て、変え、手放す」もの。変化する自分に応じて、生き甲斐もまた形を変えていい。
それは不安定で、心細く感じるかもしれない。しかし、不確かさこそが人生を豊かにしている。生き甲斐になりうるものは無数にある。人間には、何にでもなれる自由がある。「何が生き甲斐か」と考えるよりも、「何を生き甲斐にできるか」と問うた方が心が躍る。かつての生き甲斐を手放してみる。次の瞬間、新世界が見えてくる。
新たな生き甲斐と出会うたび、世界の解像度がまた一段と上がっていく。観察の分解能が高まる。今まで見えなかったものが姿を現す。かつて透明だったものが輪郭を帯び、色の深度を増す。己の内面も外面も鮮やかになる。この世界の美しさに、目を見開かれる。
生き甲斐とは、日々の歩みの下に残るさまざまな足跡。時とともにその姿を変え、後ろを振り返れば多様な軌跡が広がっている。過去に夢中だった営みを手放しても、前に向かう足取りは止まらない。ひとつの生き甲斐を卒業するたび、新たな情熱がまた目を覚ます。人を生かすのは、意志の躍動。呼吸を繰り返すだけでは物足りない。胸を撃ち抜かれるような瞬間に出会いたい。何かに深く心を奪われる、あの切実なときめきを、もう一度。
生きている理由は、生き甲斐を探し求める姿勢そのものに宿っている。
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