転ぶのは仕方がない。立ち上がるか否かは自分次第
人間は欠点だらけな存在である。誰しも何かしらの失敗を犯す。会話で不用意な発言をし、相手の心を傷つけてしまう。練習のしすぎで足を故障して、大事な部活の試合に出られなくなる。受験本番で動転してケアレスミスを犯し、これまでの努力が水泡に帰す。
失敗した瞬間、もう終わりだと天を仰ぐ。またダメだった。どうしてこんなミスをするのか。みんなはもっとうまくやっているのに。「どうせ自分なんて…」と無力感に苛まれる。プライドが傷つき、横転しながら一人で延々と泣きわめく。泣き疲れたころ、正気が戻ってくる。いったい自分は何をしているのだろうか。このまま終わってもいいのだろうか。失敗を挽回しなくていいのか。ゼロからやり直して果実を掴みに行かなくていいの?
失敗するのは仕方がない。自分の実力を過信していた、複雑な外的要因を考慮しきれていなかったなど、様々な要素が遠因となってつまづく。大切なのは【そのあと】である。転んだまま藻屑と化すのか。傷だらけになりながらも立ち上がるのか。
カンタンなのは朽ち果てる方。ただ横たわっているだけで構わない。そこには何の労力も必要ない。目を閉じ、静かに眠っているだけでいい。時の搦め手が、自分をどこまでも堕落させてくれるだろう。再起するのは大変だ。ズタズタになったプライドがさらに傷つくかもしれない。怖い。また失敗するかもしれない。そのリスクを承知で跳ね起きる。
再挑戦に必要なものは2つ。勇気と決心。ふたつ揃えば起き上がれる。自分を前に進ませる原動力は「このままでいいのか?」という内なる声。現状に満足できるか。自分はまだ終わっていないと信じられるか。失敗した人を励ましてくれる親切なチアリーダーはいない。自分で自分を鼓舞していく。「やるぞ。絶対に最後までやり切るぞ」と五月雨式に激励する。
何度転んだって構わない。そこから立ち上がれるか否かは、己の意志にかかっている。
未来を切り拓いてきたのは、いつだってベストな自分だった
宇宙は138億年前に始まった。超高温・超密度の極小点からビッグバンで領域拡大させてきた。悠久の時を経ていまに至る。しかし、時間の方向性は変わっていない。時は、大昔より、過去から未来に向けて流れていく。過去のことは記録から分かる。未来のことは何も分からない。ヒトは「いま」の一点に生きる。「過去」に基づき、「いま」を懸命に生き抜き、その当時の自分にとって最良な「未来」を切り拓いてきた。
自分の過去を振り返ってみる。「あのときもっと○○していれば…」と後悔することは数知れない。どうして彼女へあんなことを言ってしまったのか。なんで受験中にケアレスミスを見落としたのか。なぜ練習のし過ぎに気付けなかったのか。思い返すだけで赤面するほどの恥ずかしい出来事ばかり。若気の至り、ここに極まれり。周りの見えない猪武者には数多の悲劇が待ち受けていた。
いまの自分が過去の自分を責め立てる場面が頻繁に起こる。それは得てして、一方的な説教になりがちだ。当然である。昔よりも今の方が成熟しているのだから。過ちの深刻さに思い至るのは、自分が成長した何よりの証。成長が止まれば過ちにも気付けない。まずは、昔よりも少し成長した自分をそっと褒めてあげたい。過去の検証と反省は、それを済ませた後からじっくり行えばいい。
過去の自分は手を抜いて生きていたのか。違うだろう。自分なりに本気で人生へ体当たりしてきた。その時々のベストを尽くしてきたはず。迷って怖がりながら、正解なのかも分からぬまま、命懸けで未来を切り拓いてきた。昔の自分を責めるのも程々にしておこう。頑張ってきた過去の自分を認めてあげたい。過去を美化することはしない。だが過小評価もしない。未来を切り拓いてきたベストな自分の等身大を見つめる。
いまの自分がいるのは、あのときの自分が頑張ってくれたからこそ。いまの自分の礎には、昔の自分が横たわっている。己の血肉となった過去の自分へ無条件に賛辞を贈りたい。自分で自分を信頼したい。不完全でも、勇気を持って進んできた自分をなんとか肯定して受け止めたい。
一度きりの人生を後悔なく生きていきたい
人生とは何か。数多の分岐点において、その都度ひとつの道を選び抜く営みである。三叉路だろうが、十字路だろうが、たったひとつの道にしか進めない。どれだけ勉強して将来の選択肢を増やそうとも、選べるのはひとつのカードだけ。選んだが最後、他の全ての選択肢を捨てることになる。我々は、何かを選ぶたび、他の道へ進む未来を手放している。
過去の選択を猛烈に悔やむことがある。大好き同士だった彼女と何かの拍子に別れてしまう。A判定で合格間違いなしと言われた大学へ、落ちるのが怖くなり、受験直前で安全圏の志望校へ変更する。将来のことなど何も考えず、地元の企業へ就職する。何をやっているんだ。過去の自分をぶん殴りたくなる。本当にこれで良かったのか。別の道を選んだ方がおいしい思いができたのではないか。
隣の芝は青い。選ばなかった人生を、つい憧憬の眼差しで眺めてしまう。過去の自分は自分なりに精いっぱいやってきた。自分にとってはいまの人生がベスト。そんなの分かっている。過去のことを悔やんでも仕方がないのも承知している。しかし、「仮にあの時、もう一つの道を選んでいたらどうだったか」と考えてしまう。いまの境遇が悲惨であればあるほど、あのとき【選ばなかった人生】が輝いて見える。
これまで27年間生きてきた。四半世紀を経て、ひとつ悟ったことがある。
人生とは、後悔を抱えながらも進む営為である。後悔を抱きしめ、過去の選択に納得感を持って前進する行為。後悔が無いのが人生ではない。後悔を受け入れるのが人生の本質ではないか。どれだけ真剣に考えてみても失敗に終わることはままある。目標が高ければ高いほど失敗確率は高まるだろう。自分にとっての最善手を放てたか。失敗した後に起き上がれるか。これらが何よりも重要である。
一度過ぎ去った時間は戻ってこない。一度きりの人生を悔いなく生きたい。過去に納得感を持って振り返られるようになりたい。今この瞬間の選択を大切に積み重ねていきたい。過去の過ちを受け入れられるだけの度量が欲しい。成功するのも自分。失敗するのも自分。臨終の間際、過去の軌跡を振り返ったとき、「これでよかった」と思える誇り高き選択を下していきたい。
あなたはどう生きたいですか?
失敗を犯した自分を、どう受け入れますか?
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