病的なまでの突っ走り癖がある
止まれない。気を抜くのが怖い。止まった瞬間、体の中で何かが壊れそうな感覚がある。勉強、スポーツ、研究、仕事、自己研鑽。分野を問わず、何でも同じ。やるからには徹底的にやりたい。どこまでも突き進んでしまう。周りから「ちょっと休んだら?」と言われてもやり続ける。終着点は、心が燃え尽きるか、身体が壊れるか。
完璧主義なのか。惜しい。少し違う。
私は最善主義。その時々のベストを尽くしたいと願っている。人生は一度きり。いま、この瞬間を燦然と煌めかせたい。毎日を少しでも良いものにしたい。何事も適当に済ませたくない。何事においても妥協を許したくない。全力で、行ける所まで、猛スピードで突っ走る。疲れたら走りながら休む。回復したら、再び全力で駆けていく。
自分を無限に駆り立てるものは何なのか。承認欲求か。違う。SNSをやっていなのが証左だ。上昇志向か。それもない。バリバリのキャリアなど求めてもいない。
私を突き動かすのは「不安」の二文字。怖いから走る。怖さを紛らわすために前へ進む。
小学生のころ、家庭内暴力を受けていた。テストで99点を取って帰ったら「どうして1点落としたのよ!!」と歯型が変わるほどボコボコにされた。ミスを犯す恐怖を嫌というほど味わった。なるべく辛い思いをしたくない。次にまた同じことをやらかしたらどうなるか、想像するだけで恐ろしかった。だから、頑張る。限界まで追い込む。頑張ったからといって成功するわけではない。殴られずに済むには頑張るしかなかった。
現状維持だと後退している感覚に陥る。衰えが怖い。出来ていたことが出来なくなるのが嫌だ。
人は必ず老化する。身体機能や脳機能が落ち、やがて何もできなくなって白骨になる。自らにも衰えが来るのは間違いない。現に、今まで1.5を切ったことのなかった視力が、新入社員健康診断で1.2を記録した。見えていたものが見えなくなった。怖かった。全身に鳥肌が立った。いくら衰えを拒んでも必ず老化する。分かってはいる。とはいえ、まだまだ衰えたくはない。自分はもっと頑張れるはず。疲れ? 限界? そんなの関係ない。自分で自分を鞭打ち、喝を入れ続ける。
楽観性がないことの弊害
北大の博士課程へ進学した。将来、研究者になりたくて。
大学や国立研究所で職を得るには、公募を勝ち抜く必要がある。相手は自分と同じ、研究一筋で頑張ってきた人間。椅子取りゲームで勝つのに重要なのが業績量。学術論文を何報記してきたか。一流雑誌へ論文をいくつ掲載したか。学会で賞を何個とったか。業績量が多ければ多いほど、採用される確率が高まる。
我々アカデミア志望者は、少しでも多くの業績を挙げるため、日夜苦闘する。なるべく多くの論文を記す。プレゼンテーションのクオリティーを高め、喉が枯れるまで練習して受賞をもくろむ。その努力に終わりはない。努力量の目安もない。勝つために頑張る。研究ポスト獲得のためなら土日もプライベートも犠牲にする。何事にも全力を尽くす。全ては、勝利のために。
結局、研究者にはなれなかった。公募に敗れたのではない。公募へたどり着く前段階で心が燃え尽きてしまった。博士課程在籍中、学術雑誌へ投稿した論文が四回もリジェクト(掲載拒否)になった。博士一年次後期に行ったイギリス留学では散々な目に遭った。”それでも何とかなるさ”などと思えなかった。自分には漆黒色の未来しか見えなかった。研究者を目指して前へ進む勇気が脆くも崩れ去った。
今まで業績だけを追い求めてきた。そのおかげで、業績だけは人並み以上に揃っていた。博士課程を飛び級して修了できた。研究者になるより飛び級する方が難しい。もしも公募へ挑んでいればどうだったか。研究ポジションを掴めていたかもしれない。研究の道を諦め、民間企業へ就職した。Uターン就職。博士課程で疲弊したメンタルを回復させつつマイペースで働いている。
研究者になるには、業績以外にも重要な素質が求められる。自分には無くて、研究者には備わっていたもの。そう、それこそが【楽観性】である。「将来はなんとかなるさ」「絶対大丈夫さ」と自身に言い聞かせ、自分の描く未来を信じられる力。楽観とは、失敗や不確実性を受け入れること。無防備さの別称ではない。どんなときでも己の将来を前向きに捉えられる、強い精神力の持ち主だ。私が公募レースにたどり着けなかったのは、当時、あまりに悲観的性格だったから。勝手に悲観し、自分を追い込み、耐えられなくなって自壊した。
今まで、自身が悲観的であることが将来の妨げになる事態に遭遇しなかった。最悪の事態を予測して動いてきたおかげで一定の成果を挙げてこられた。国体馬術競技では全国優勝を果たした。北大受験では次席合格した。マラソンは2時間42分で走れるようになった。しかし、研究者にはなれなかった。努力不足ではない。努力のしすぎと楽観性の欠如が夢を挫折させた。この事実は、自分を根底から揺るがした。
休みたい。心置きなく
研究者になれなかった。自身へ敗北の二文字が突きつけられた。物心ついた頃から追い求めてきた夢が叶わなかった。悔しい。挫折した自分が情けない。と同時に、生き方の変革が必要だと感じた。不安に突き動かされて突っ走るライフスタイルを大転換しなければならない。
博士課程を修了し、企業へ入った。入社翌日から新人研修が始まった。ゴールデンウィークを挟んで一か月半、思考負荷の低い日々が続いた。退屈だった。知っていることばかり教え込まれて。研修が早く終わって欲しいと願う。時計の針に手をかけ、一分一秒でも先へ進ませようとする。
我々会社員は、時給換算でカネを配られる。長く会社に居れば居るほど多額の給与を受け取られる。ダラダラ過ごしていても構わない。何をしようが給与は支払われる。もともと生真面目な性分だ。空白があれば埋めたくなる。研修の話を聴きつつ内省を行った。自分をどう変えれば前向きな未来を描けるのか、徹底的に考え抜いた。
今までは停止=崩壊だった。壊れるのを恐れて走り続けてきた。走っていれば恐怖が追いついてこないと信じていた。止まったから壊れた。そう思っていた。
冷静に過去を振り返ってみる。歩みを止めたから体が壊れたのではない。体が壊れたから、歩みが止まったのだ。壊れたのは、走り続けたせいではないか。無我夢中で前に進んだ。自分のキャパシティーを考慮しなかった。ロボットじゃないのにロボット風に振舞ってきた。だからおかしくなった。当然の帰結だ。
であれば、休むのも悪ではなかろう。走るために休む。休むから、また走れる。休むのも前進の一種である。休憩中、体は超回復している。休む前より強くなっていく。的確なタイミングで休憩を挟めれば、ずっと走っているよりも速く前へ進める。ひょっとしたら遠くへ行けるかもしれない。全力で走って届かなかった場所からの眺めを今度こそ見られるかもしれない。
危機が迫ったときに休む勇気があるか。疲れたとき、袋小路に陥ったとき、「何とかなるさ」と手を休められるか。希望を捨てず、前向きな姿勢を保てるか。未来の自分を信頼する。目の前の課題を今の自分だけで何とかしようとしない。未来の自分との二人三脚で、あるいは三人四脚の総力戦で立ち向かっていく。私に求められているのは「楽観性の習得」ではないか。
会社員になってから、あえて手を抜く日を設けた。日曜を人生のペースを緩める日と位置付けた。読書も、ブログ執筆も、ランニングも、普段の5割程度のペースで嗜んでいく。
最初は落ち着かなかった。もっとできる。やらなきゃ、やらなきゃと昔のように自分を駆り立てようとした。頑張ろうとする自分を押さえつける。頑張ったらダメ。休め。落ち着け。出力を落としていいんだから。週を重ねるごとに慣れてきた。休んだところで何も壊れやしない。自分が成し遂げてきたことの価値は微塵も棄損されやしない。そう分かってからは心おきなく休めるようになった。
人生に”余白”が必要だと、ようやく理解できるようになった。これまでの私は、常に「足りない」ことを恐れていた。努力も実績も、休むことすら、何かを埋める手段だった。スケジュールに空白ができれば不安になる。無意味な時間が怖くて予定を詰め込んだ。どこかで「今止まったら、自分は終わる」と思っていたのだろう。
最近、こう考えるようになった。余白は「足りなさ」ではなく、「満ち足りていることの証」なのかもしれない。焦って埋めなくたって構わない。目的のない散歩。誰とも話さない夜。何も残らない時間。そういう瞬間のなかでしか見えないものが、確かに存在している。自分を強くするとは、ただ努力を積むことではなかった。静かに整えること、抱え込まずに手放すこと、頑張らなくても大丈夫な自分でいること。それらもまた、立派な強さだった。
これから先、何をするにも全力でなくていいと思っている。「ちょうどいい力」で生きる。その加減を自分の感覚で決めていい。一日を終えて、息が上がっていなくてもいい。糧になるものが何もない日があってもいい。肩の力を抜いて迎える朝があってもいいじゃないか。何もやらない時間を罪としない。何もしない時間を、自分に許す。
静かで、何も起こらない時間。そこに自分がぽつんと在るだけの時間。それでも、確かに生きている。今の私は、その静けさごと、自分の人生だと思える。焦らずに生きる。腰を据えて歩む。それが、私が見出した楽観の形である。
コメント
コメント一覧 (2件)
これまでお疲れ様でした。いろいろ疲れたときは温泉とかいいですよ。血の巡りがよくなると気分も良くなるものです。読みたい小説を片手に、何もしない時間を楽しむにはうってつけです。一案までに。
コメントいただきありがとうございます。博士課程修了後、ねぎらいの言葉をかけてもらえたのは、これが初めてです。
来週末、遠出して温泉に行ってみます。ボーっとしたいです。
ご提案いただき感謝いたします。