【自分史】これまでの人生と今後の展望について

誕生から現在に至るまでの28年間、およびこれから先の人生の生き方を記しました。

目次

自分史概略

誕生~中学進学

  • 【0歳】広島に降臨。夜泣きをほぼしない、省エネ設計の赤ちゃんだった
  • 【10歳~12歳】小学校でいじめを受ける
  • 【10歳】乗馬を始める。馬との運命的な出会い
  • 【12歳】中学受験に失敗し、第二志望の中学校へ進学

中学高校生活

  • 【中1~中2】中学校でもいじめを受ける
  • 【中3】馬術競技で国体優勝。以降、高3まで四年連続入賞
  • 【高2】彼女ができる
  • 【高3】京大農学部にA判定から6点差で不合格
  • 【一浪】北大総合理系にトップから6点差で次席合格

大学生活

  • 【B1】ボーっとしていて部活にもサークルにも入りそびれる。暇を持て余してランニング開始
  • 【B2】初フルマラソン完走。一か月後に100kmマラソン完走
  • 【B3】ブログ運営を始める。フルマラソン3時間切り(2時間59分23秒)

研究室生活

  • 【B4】希望とは別の研究課題を渡されて萎える。失意を推進力に変え、3月に国際誌で査読付き筆頭主著論文を出版
  • 【M1】博士課程進学を決意
  • 【M2】学振DC1に内定。海外の超一流誌で筆頭論文を出版
  • 【D1】オックスフォード大学へ留学するも、渡航先の研究室選びで失敗し、何もできずに帰国。地元の大企業へのUターン就職が決定
  • 【D2】マラソン2時間42分。博士課程一年短縮修了(飛び級)

会社員生活

  • 【社1】SHUCDEC(スーパー・ハイパー・ウルトラ・超・どんだけ・エクセレント・カンパニー)の弊社に就職

誕生~幼稚園生時代 (0歳~6歳)@広島

1997年12月、広島県東広島市に降臨しました。親いわく、午前12時34分に生まれたらしいのですが、本当かどうかは定かではありません。夜泣きをほとんどしない子供だったそうで、あまりに静かにぐっすり眠るものだから、周囲から息をしているのか疑われるレベルだったとか。生まれたての頃から周りに心配をかけるタイプだったようです。

一歳の誕生日、直立二足歩行に成功しました。立ち上がった瞬間、哺乳瓶を床に激しく叩きつけて破壊。幼児の殻を自力でぶち破り、小児への進化を高らかに宣言してみせたのです。二足歩行を覚えたらすぐに走り回れるほどのバランス感覚を持っていたらしく、運動神経の片鱗はこの頃から見え始めていたのかもしれません。

幼稚園進学を機に広島市へ移住しました。河川敷のすぐ裏手にある仏教系の幼稚園へ入園。ことあるごとに走り回ってクラス担任を困らせる腕白小僧でしたが、園長先生の巧みな教えのおかげで仏教心はちゃんと根付いたようです。

ちなみに、幼稚園時代は実はモテていたという目撃情報があります。とある可愛い女の子に顔を押さえつけられ、かなり強引に唇へキスされたこともあるのだそうです。残念ながら全く記憶に残っていません。ファーストキスが意図せず奪われていたとは、大変遺憾であります。

小学生時代 (6歳~12歳)@広島

小学生時代は自らの不運を思い知らされ続ける六年間でした。頭にこびりついているのは暗くて悲惨な思い出ばかりです。

まず、一年次に国語の試験で0点を取りました。テスト自体は全問正解だったのに、あまりに字が汚すぎて先生を怒らせてしまい、0点を食らったのです。ちゃんと真面目に答えていたにもかかわらず、答案の文字が汚すぎて先生が丸を付ける気にならなかったそうで。世の中にはこんな不条理なことが起こりうるのだと、六歳にしてガッカリさせられました。

四年次から六年次にかけては、いじめにも遭い続けています。当時の私はまるでミートボールのようなデブ体型で、顔はパンパン、お腹はぶよぶよ。足は遅く、言葉のレスポンスも幾ばくか鈍かったので、いじめっ子にとっては格好の標的だったのでしょう。学校へ行くたびにいびられ、泣かされ、仲間外れにされました。

周りのクラスメイトだって少し前までは太っていたのに、成長期が訪れるや否やみんなスリムになっていったのです。成長期が来なかった少数派の私だけが辛い思いを味わうという構図。人間というのは、生まれつきの特性の違いだけで他人を攻撃できてしまう生き物なのだと、思春期の入り口で残酷さを知りました。

最後に、中学受験でも失敗しています。広島の最難関校である広島学院に落ち、学院より一段レベルの落ちる中高一貫男子校に進学することになりました。小学四年次から中学受験塾に通っていたのは、いじめてくる連中と同じ中学へ行かないで済むように。広島学院への合格を目指して必死に勉強したものの、偏差値で言えば5は足りませんでした。算数が致命的に苦手だったのです。社会はすごく得意でしたが、算数のほうが配点は大きく、社会で挽回し切るのは構造的に不可能でした。

そんな小学校生活で唯一の良い思い出は、五年生か六年生のときに音楽の授業で参加した音楽コンクールぐらいでしょうか。みんなで演奏した曲はZARDの最高傑作。私はリコーダー担当です。他にできそうな楽器がなく、消去法でリコーダーを選びました。

何の偶然か、練習でも本番でも当時好きだった女の子の隣の席だったんですよね。好きな子の隣って、嬉しいけれどちょっと緊張するじゃないですか。ミスしないよう細心の注意を払いながら演奏し、本番では一度もやらかしませんでした。演奏が終わった直後、好きな女の子と目が合って笑みを交わし合えたのがハイライトです。暗黒時代にも光は差すのだと、あの瞬間だけは信じられました。

中学生時代 (12歳~15歳)@広島

学校生活

暗黒の小学生時代が終わったと思いきや、待っていたのは漆黒の中学生時代でした。辛かった学校生活はますます辛くなり、日常の中に何ひとつ希望を見出せません。

小学六年生あたりから私にも成長期が到来し、徐々に痩せていったので体型のことではいじめられなくなりました。ところが今度はやんちゃな連中に目を付けられてしまいます。ひょんなことから絡まれ、難癖をつけられ、学校で落ち着けなくなったのです。中二の秋には着ていた制服のYシャツをビリビリに引き裂かれましたし、殴る蹴るは日常茶飯事。刃物をチラつかせて脅されたこともありました。

小学校と同じように中学でもいじめを受けるのであれば、果たして自分は何のために中学受験をしたのでしょうか。同級生はもちろん、担任や受験をさせた両親までをも信じられぬ極度の人間不信に陥りました。定期試験の総合成績は270人いる学年で200番台、科目によっては250番。学校生活が荒れに荒れていた時期の成績は壊滅的でした。

乗馬生活

一方、小学校でいじめを受け始めたのをきっかけに、学校以外の居場所を作るべく通い始めた乗馬クラブが私の心の支えになっていきます。小四のゴールデンウィークに親子三人で廿日市の山奥にある乗馬クラブを訪れ、体験乗馬を受けたのが最初の出会いでした。馬の奏でる独特なリズムやビュンビュン流れゆく馬上の風景に、溢れんばかりの非日常感を覚えてたまらなくなったのです。

太り気味の私でも最初から上手く馬に乗れました。一歳で直立二足歩行を果たしたバランス感覚のおかげかもしれません。毎週末、乗馬クラブに通ってレッスンを受けるうちに、まるで水を吸い込むスポンジのようにテクニックが身体に染み込んでいきました。ビギナークラスから始まり、初級、中級を飛ばして最終的には上級クラスまで到達しています。

中学一年から障害物を飛び越える正確さと速さを競う障害馬術を専門的に学び始めました。初めて出た競技会でいきなり優勝してしまい、練習すればするほど上手くなって勝てるという好循環に突入。プロの先生に交じって競技に出場し、入賞や優勝をかっさらう日々が続きました。

中学三年の夏、広島県の代表選手として国民体育大会の予選を突破し、10月の本戦へ進出。初めての国体では、ある種目で3位になったあと、悔しさをぶつけた別の種目でぶっちぎりの優勝を飾りました。表彰台の最上段から見上げた蒼穹の大空は今でも眼裏に焼き付いています。表彰式後には中国新聞の取材を受け、メダルを噛んでみせたのが懐かしい思い出です。

国体優勝後

国体で優勝した途端、学校での私の扱いがガラリと変わりました。それまで散々難癖をつけてきた連中がサーっと姿を消し、いじめは完全に止みます。制服を引き裂かれる心配をせずに済む日々の、なんと穏やかなことか。国体優勝は結果を出せば周りを黙らせられるという人生訓を私に与えてくれました。

学校で落ち着きを取り戻すと、テストの成績も怒涛の勢いで急上昇。学年最下位層から200位以上順位を伸ばし、学年15位まで到達しています。数学で学年首席を取ったこともありました。乗馬で培った自信が勉強にまで波及し、中学の卒業式では国体優勝の功績で校長賞を受賞。入学当初にいじめに打ちひしがれていた自分に伝えても、きっと信じてくれないでしょうね。

高校生時代 (15歳~18歳)@広島

学校生活

学校で平穏な日々を送れるようになったのは良かったのですが、国体優勝の前と後で周囲の態度があまりに劇的に変わりすぎて、かえって学校を信じられなくなりました。良い方向へこれほど簡単に変わるのなら、再び悪い方に転がり落ちるのも一瞬ではないだろうか、と。学校での人付き合いは最低限に留め、知り合いは沢山いても、放課後に一緒に遊んだり帰ったりする友達は一人もいませんでした。

成績のほうは至極順調で、自分に合った勉強のやり方を掴めたようです。定期テストの最高順位は学年総合4位。数学や英語では1位を取ったこともあります。中学時代の私を知る同級生からは不思議がられましたが、勉強のやり方は頑として教えませんでした。だって君たち、私がいじめに苦しんでいたのを黙って傍観していたでしょう。

乗馬生活

心の居場所は完全に乗馬クラブの中にありました。平日に嫌な思いをしても、週末に馬や愉快な仲間たちの元でのびのび過ごせば帳消しになったのです。

勉強よりも乗馬のほうがずっと得意でした。勉強は努力しなければ点数が取れない一方、乗馬はそれほど力まなくてもある程度以上のことができてしまう。ひょっとしたら才能があったのかもしれません。大学なんて行かずに乗馬クラブで働いたほうが幸せになれるのではと考えたりもしました。ただ、教育熱心な親の手前、そんなことは口が裂けても言えません。言ったらホンマに口を裂かれてしまう

乗馬は高校卒業まで。せっかく得意なスポーツを見つけて存分に楽しんでいたのに、自ら乗馬の道を捨てて不得意な勉強の道に進まなければならない。虚しく、悲しく、あまりに切ない運命。あと3年しかないのなら、残された時間で乗馬を楽しみ切るしかないと腹を決めました。

不思議なもので、乗馬を頑張っていると勉強も上手くいくんですよね。学年総合4位を取った試験は事前にほとんど勉強しなかったテストです。狂奔的な情熱は小手先の努力を遥かに凌駕するようで、乗馬に捧げた想いが学力パラメータまで突き抜けさせてくれました。

高校三年間は毎年国体に出場しています。連覇を狙った高一の東京国体では5位。再び優勝したいと願った高二の長崎国体では三種目入賞も最高6位。最終学年の和歌山国体では7位。振り返ると、優勝への執念が先走りすぎて乗馬を楽しむ余裕を失い、競技中に体が固くなっていたのだと思います。もう少しリラックスして馬に乗れていれば結果は違っていたかもしれません。かけがえのない三年間を、少し勿体ない終わらせ方をしてしまいました。

乗馬クラブで練習を頑張っていたら、高二の夏に彼女ができました。一歳年下の女の子です。水色のTシャツと麦わら帽子がよく似合う、爽やかな子でした。彼女は腕相撲が強くて、左腕で勝負したらなんと負けてしまったのです。一応は本気だったのですが。あまりの非力さに絶望し、以来、家で腕立て伏せをして密かに腕力の向上を図りました。宮島の花火大会やカープの試合観戦、クリスマスの映画デート。漆黒の学生生活に青春の鮮やかな1ページを綴ってくれたことに、心から感謝しています。

京大受験

さて、話を勉強のほうに戻しましょうか。

志望する大学はただ一つ、京都大学でした。中学三年の頃から一貫して京大志望。吉田寮や熊野寮をはじめとするカオスな雰囲気がたまらなく好きで、ここで学べたらめちゃくちゃ幸せな学生時代を過ごせるだろうと確信していたのです。

中三から京大一本に絞って受験対策を開始しました。乗馬メインの生活だったので、学校の休憩時間や授業中、練習の隙間を使って勉強するしかありません。高三の5月の駿台模試では農学部E判定。危機感を募らせて勉強を頑張ったら、夏の京大実戦模試でB判定。望外の結果に驚きつつ、さらに追い込んだ秋の京大実戦ではA判定まで到達しました。トントン拍子で判定が上がっていくので、ついつい気が緩んでしまったのです。

結果、センター試験で大撃沈しました。総合得点が直前の模試より90点も低かったのです。気の緩みと追い込み不足が招いた目を覆うような惨劇でした。二次試験までの間に必死に勉強して挽回を試みたものの、二次試験の数学で思い切りやらかし、農学部に6点差で落ちてしまいました

ここで触れておかなければならないのが、ミソフォニアのことです。私は特定の雑音を雑音として適切に処理できず、悲しみや怒りを感じてしまう障害を持っています。感情を揺さぶる主なトリガー音は鼻をすする音。学校や模試会場のような密室には、鼻をスンスンすすってくる人がうじゃうじゃいるのです。

誰かが鼻をすするたびに感情が渦巻き始め、順調に回答していた手がピタリと止まってしまいます。集中力や精神力の問題ではなく、脳機能の障害なので、自分の意志ではどうにも解決できません。いくら勉強を積み重ねて試験に臨んでも、トリガー音が聞こえてしまえば回答が手につかなくなる。私の大学受験は試験問題との闘いであると同時に、音との闘いでもありました。

大学受験浪人生時代 (18歳~19歳)@広島

現役時代は京大一本での受験でした。京大に敗れた瞬間、その場で受験浪人が確定しています。後期試験には出願していません。京大に受かるつもりしかなかったので。この潔さが裏目に出たわけですが、後悔はしていませんでした。後悔するほどの余裕がなかったとも言えます。

浪人生活の拠点に選んだのは河合塾広島校です。駿台と迷ったのですが、監視の目がキツそうな駿台よりも、学生の自主性を信じてくれる河合塾のほうが性に合いそうだと感じました。実際、河合塾は本当に緩かったです。ちゃんと勉強して模試で結果を出している限りは誰からも何も言われません。サボっている子がチューターさんから受ける注意も「ちゃんとやらなきゃダメじゃーん」程度のもの。予備校界のフリーダム代表みたいな場所でした。自分を厳しく律せる人間はグングン伸びていき、自分に甘い人間はトコトン堕落して消えていく。まさに弱肉強食の草原です。

夏までは現役時代に引き続き京大を志望していました。夏の京大オープン模試で農学部A判定を叩き出し、成績優秀者として冊子にも掲載されています。嬉しくて仕方がなかったのですが、どうやら喜びすぎたのがまずかったようです。緊張の糸がプツリと切れてしまいました。勉強しようにも気力が湧いてこない。もう京大に受かった気になってしまって、何もかもに手がつかなくなったのです。現役時代に全く同じパターンで失敗したはずなのに、人間というのは学ばない生き物ですね。おまけに受験のストレスで持病のミソフォニアまで悪化し、音に苦しめられて授業にすら出られなくなりました。

京大を目指したい気持ちだけは変わらないのに、肝心のやる気と気力が根こそぎ消え去っている。このまま京大に挑んでも二の舞を踏むのは目に見えていますし、二浪は絶対にもたない。憧れの京大から北の雄・北大へ、志望校を変更する決断を下しました。

ところが不思議なもので、志望校を北大に変えた瞬間、勉強への意欲がどこからともなく溢れ出してきたのです。浪人生活の終わりが見えたからでしょうか、ストレスが嘘のように消え、前向きに机へ向かえるようになりました。北大模試では総合理系A判定の5位。この勢いを京大受験にぶつけられたら今度こそ受かりそうなのに、京大について少しでも考えた途端、脳がシャッターを下ろしてたちまち思考停止に陥ります。限界まで追い込む日々を、体が本能的に拒絶していたのでしょう。京大への積年の想いに蓋をして、北大を受験することに決めました。

センター試験では国語で114/200と大爆死しています。小説パートと古文パートが壊滅的な出来でした。他の科目はおおむね9割以上を確保したので、総合763/900の85%とまずまずの着地です。現役時代の惨劇を教訓にして二次試験まで気を緩めず勉強を続けた結果、二次試験は楽勝。トップと6点差の次席合格でフィニッシュしました。

京大には6点差で落ち、北大には6点差で受かる。どうやら私の人生は6という数字に支配されているようです。6点の神様がいるとしたら、なかなかに意地の悪い方ですね。

大学生時代 (19歳~23歳)@札幌

北大に進学した直後から、ネガティヴな気持ちに苛まれ続けました。京大から逃げて北大へ来てしまった自分はなんと気弱な人間なのだろうか、と。

志望校を下げた自分のことがどうしても好きになれないのです。もう一度京大を目指そうと仮面浪人にも手を出してみましたが、一か月で白旗を揚げました。やる気の炎が着火すらしなかったのです。大学の勉強に没頭しようとしても、本当にやりたかったのは勉強ではなく乗馬なので、講義への集中もままなりません。教科書を開いても頭に入ってくるのは馬の蹄の音ばかりでした。

一年次の夏休み、うだるような暑さの昼下がりに自室で寝転びながら、自分は何のために大学へ進学したのだろうかと本気で悩みました。一時は大学をスパッと辞めてしまおうとさえ思ったのですが、辞めたあと行くアテが一つもなかったので辞められませんでした。しかも新歓時期にボーっとしていた結果、部活にもサークルにも入りそびれています。世の大学一年生がキラキラした春を過ごしている間、私は虚空を見つめていたわけです。一人ぼっちで悩み苦しむ学歴コンプ理系男子大学生の完成。材料はすべて自分で揃えました。

さすがにこのままでは心の芯まで腐ってしまう。何かに情熱を捧げていなければ生きている実感が湧かない体質なのに、注ぐ先が見つからないのです。何かやらなきゃ。でも何をすればいいのか見当もつかない。考えれば考えるほど思考は堂々巡りで、もうやってられませんでした。

ある夜、パジャマのまま外に飛び出して全力でダッシュしました。理由なんてありません。ただ走りたかっただけです。息が切れるまで夜道を駆け抜けたら、額には大粒の汗が流れて心臓はバクバクと高鳴っている。あぁ、気持ちがいいな。なんだか生きているって感じがして心地良い。学歴コンプの答えがパジャマダッシュの中にあったとは、人生というのはどこに転機が落ちているか分かりません。

以降、毎朝ランニングに取り組むようになりました。自分の体を実験台にして走力を開発する日々の始まりです。色々な練習方法を試してはアレンジし、地道に積み重ねていった結果、最初は3kmで息絶えていた人間がフルマラソンを完走できるまでに進化。さらには100kmのウルトラマラソンまで走り切ってしまいました。学部二年次の12月に沖縄で挑んだ100kmマラソンは10時間17分。人間、パジャマで走り始めても100km走れるようになるんだなと、我ながら感心しています。学部三年次の11月には山梨のフルマラソンでサブスリーを達成し、2時間59分23秒でゴール。乗馬の代わりに見つけた情熱の行き先は、まさかの長距離走でした。

もしもランニングとの出会いがなければ、大学の卒業すら危うかったかもしれません。私の人生を救ったのはパジャマと夜道と重力です。

大学の勉強には相変わらず興味が持てなかったのですが、関心の持てそうな分野を探し回ったところ、自分が好きなのは化学らしいと気づきました。高校時代から化学は得意で、電池反応や無機化学には特に惹かれるものがあったのです。ただ、一年次の化学の成績はお世辞にも良いとは言えず、有機化学に至っては絶望的にできないという致命傷が見つかりました。化学をガッツリ使う分野に進んだら間違いなく置いていかれる。化学を程々に使って研究できる場所はないかと探した結果、工学部応用マテリアル工学コースへ移行することに決めたのです。化学とほどよい距離感を保てる、ちょうど良い居場所でした。

大学院生時代 (23歳~27歳)@札幌&つくば&オックスフォード

研究室生活

二~三年次に受けた授業の中で講義が最も面白かった先生の研究室へと配属されました。ところが、当初希望していた研究テーマとは違うテーマを渡されて、いきなり面食らわされます。興味のない研究テーマというのは本当に面白くないんですよね。おまけに使わされる装置が超絶難しくて、不器用な私には到底使いこなせそうにありませんでした。

配属から三か月で研究テーマの変更を懇願。すると今度もまた、希望したのとは別のテーマを渡されてしまいました。二回連続で希望が通らないというのは、もはや才能と言っていいかもしれません。ただ、文句を言い続けても埒が明かないので、これをやる運命なのだと腹を括ってテーマを受諾しました。

私の研究は札幌ではなく筑波で行います。使用する実験装置が筑波の某・国立研究所にあるため、データを集めたければわざわざ筑波まで出張しなければならないのです。研究室の他の学生はやる気さえあれば年中無休で実験できるのに、私だけは年に数か月間、しかもそのうちのごく限られた期間にしか手を動かせません。しかも実験試料さえ満足に買ってもらえないという待遇で、接着剤やスライドガラス、一部の電極材料は自腹でネット購入していました。やりたくもない研究をやらされた挙句、実験材料の自費購入を強いられるという、一体何の罰ゲームなのか分からない状況です。

けれども、このよく分からない環境が、かえって私のハングリー精神に火をつけてくれました。絶対にあの人を見返してやるぞ、と。滅茶苦茶な条件のもとでも成果を出して、実力を証明してみせようじゃないか、と。

馬車馬の如く実験を重ね、学部四年次の3月には早くも一報目の学術論文を出版しました。実験しすぎて瞼が震え出し、ストレスで胸の回りに蕁麻疹が広がっても手を止めなかったのです。修士一年次の3月には学会で講演賞を受賞。修士二年次の9月には同世代トップ700人のみが採用される日本学術振興会特別研究員DC1に内定し、翌月には主著論文が海外の超一流誌に掲載されました。あのボロボロの環境から超一流誌に論文を出したのだから、人間の逆境パワーというのは馬鹿にできません。

博士進学後も苦労しながら論文を出版し続けています。研究で消耗しきった体にランニングで追い打ちをかけるスタイルも健在でした。修士二年次の12月には沖縄で100kmマラソンに再挑戦し、学部時代の記録を1時間以上更新する9時間1分17秒でフィニッシュ。D2の11月には学会発表の翌日に福知山マラソンを2時間42分14秒で走り抜いています。前日に学会で喋り倒した翌日にフルマラソンを走る人間が日本に何人いるのか、ちょっと気になるところです。

オックスフォード大学留学

博士課程一年次の10月初旬から翌年1月中旬まで、3か月半ほど海外留学に出かけました。渡航先は世界最高の名門校オックスフォード大学です。学部時代からアルバイトで貯めたお金と学振DC1の給与や研究費を注ぎ込んだ、完全なる身銭切りの留学でした。将来は海外での就職を考えていたので、今回の留学を足掛かりにできればという目論見です。

結果は散々でした。実験をしに行ったのに、実験をひとつも行えないまま帰ってきたのです。研究室にそもそも人がいなくて友達を作る相手がおらず、実験装置や測定機器は軒並み壊れていて使い物にならない。世界最高峰の大学に行ったら何もなかったというのは、なかなかシュールな体験です。

渡航費や滞在費、大学への在籍料を合わせて約200万円が水泡に帰しました。お金だけではありません。夢も希望も時間も気力も、海外への憧れも、すべてオックスフォードの石畳の上に砕け散ったのです。

留学すれば色んな国の学生とワイワイ交流して友情を育めるものだと思っていました。せめて受け入れてくれた研究室の教授とぐらいはパートナーシップを築けるだろうと。教授とは一回喋っただけでサヨナラだなんて、渡航前の私に言っても信じなかったでしょうね。200万円で得た教訓は「世界最高峰でも中身を確認してから行け」ということでした。

進路選択

イギリスから帰る直前に、進路を決めました。海外で就職しようと思っていたのですが、海外に対する想いは私からの壮大な一方通行だったと留学で痛感しましたし、研究者としての道もせっかちで悲観的すぎる自分には不向きだと悟ったのです。博士課程修了直後が自分を最も高く売れるタイミングだろうと判断し、日本の民間企業へ就職することに決めました。

どうせ就職するなら生まれ育った故郷で働きたい。慣れ親しんだ乗馬クラブでもう一度馬に乗れるぐらいの給与が欲しい。研究経験で培った知識を多少なりとも活かせたら嬉しい。こうした条件で企業を絞り込んでいったら、最終的に候補は広島の某・大企業一社だけになりました。

1月中旬にアプローチし、履歴書と研究概要と希望業務内容をメールで送ったところ、すぐに最終面接へ案内されています。面接も終始和やかなムードで進み、あっさり内々定をいただきました。就活は一打数一安打の打率十割でフィニッシュ。イチローもびっくりの効率です。

就職は2025年4月、博士課程を一年早期修了しての入社になります。飛び級のためには標準年限で博士号を取るよりも多くの研究業績が必要でした。体の中に残っている気力をすべて絞り出して研究を進めました。喀血してもすぐに立ち上がり、手首やまぶたが震え出しても片方の手で押さえつけながら論文を書く日々です。人生をフルbetした飛び級チャレンジでした。くたばるわけにはいきません。気を抜いた瞬間に潰れかねないスリル感すら楽しみに変えて、歯を食いしばって耐え凌いだのです。

12月に予備審査会をパスし、翌月の公開論文説明会もクリア。研究以外のありとあらゆる楽しみを犠牲に捧げた代わりに、早期修了という輝かしい勲章を手に入れました。Uターン就職が現実のものとなったのです。さあ行こうぜ、どこまでも。挑戦はまだまだ始まったばかりです。

将来のこと (27歳~)@広島

そもそも私がUターン就職を決断したのは、広島で人生を再出発したいと思ったからです。就職を機にこれまでの生活を一旦リセットするなら、地元がいいと考えました。

広島で生まれ育ち、札幌で学び、オックスフォードで闇を見てきた27年間。世界を転々としながら働くノマドワーカー的な生き方にも一瞬だけ心が揺れましたが、自分の性格を考えると、精神を安定させるには何か堅牢な拠り所が必要です。どれだけもたれかかってもドッシリ構えて受け止めてくれて、少々の甘えを許してくれるような場所。地球上で私が心から寛げる場所は広島と札幌の二つしかなくて、札幌には働きたいと思える企業が見つからなかったので、消去法で広島を選びました。消去法でも故郷に帰れるというのは、なかなか幸運なことだと思っています。

勤め先にはできるだけ長くいられたらと思っています。転職前提の生き方は好みではなく、転職しないで済むならそれに越したことはありません。ただし、万が一に備えていつでも転職できるだけの力は蓄えておくつもりです。何年勤めるのかはまだ分かりませんが、ひとまず8年後、35歳になったとき、広島や会社への愛着と自分の将来を天秤にかけて今後のキャリアを決めるつもりでいます。

細く長く生きるぐらいなら、太く短く生きてこの世に強いインパクトを残したい。自分の生き方や考え方に共感してくれた誰かが、人生を前向きに生きるヒントを得てくれたら嬉しいです。死ぬまでにこのブログを月間100万PVの超人気サイトに育て上げることも、密かに企んでいます。大学生活や研究室でのアレコレに困っている後輩をなるべく大勢助けてあげたい。

そしてもしも、こんな不器用で何もできない人間のことを好きだと言ってくれる人が現れたなら、ぜひお付き合いしたいです。**一緒になってくれる方のことは命を懸けてでも幸せにします。**応募はいつでも受け付けております。

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