【自分史】これまでの人生と今後の展望について

誕生から現在に至るまでの26年間、およびこれから先の人生をどう生きるかについて記しました。

目次

誕生~幼稚園生時代 (0歳~6歳)@広島

1997年12月、広島県東広島市に降臨しました。本当かどうか定かではありませんが、親曰く、午前12時34分に生まれたようです。夜泣きをほとんどしない子供でした。あまりに静かにぐっすりと寝ているものだから、”この子は死んでいるんじゃないのか?”と周囲に疑われたぐらい。一歳の誕生日、直立二足歩行に成功します。立ち上がるや否や、「こんなもの要らないっ!」と哺乳瓶を床に激しく叩きつけて破壊。幼児の殻を自らぶち破り、小児へ成長する旨を宣言したのです。二足歩行成功後、すぐに走り回れるほどのバランス感覚を有していました。

幼稚園進学を機に広島市へ移住。太田川の河川敷のすぐ裏手にある仏教系の幼稚園に進学。ことあるごとに走り回ってクラス担任を困らせる腕白小僧でした。園長先生の巧みな教えでちゃんと仏教心は根付いたようです。他の人の話曰く、幼稚園生時代、実はモテていたらしい。とある可愛い女の子に顔を押さえつけられ、かなり強引に唇へキスされたこともあるそう。くそっ、全く記憶に残っていません… ファーストキスが意図せず奪われてしまって大変遺憾ではあります。

小学生時代 (6歳~12歳)@広島

小学生時代は自らの欠点を思い知らされ続ける六年間でした。良い思い出はほとんど残っていない。頭にこびりついているのは悪い、悲惨な思い出ばかり。

まず、一年次には国語の試験で0点を取りました。テスト自体は全問正解だったものの、あまりに字が汚すぎて先生を怒らせてしまって零点を食らったのです。ちゃんと真面目に答えていたのに、答案へ記した文字が汚かったらしく、先生が丸を付ける気にならなかったそう。 (こんな不条理なことが世の中に起こりうるんだなぁ…) とガッカリ。もっと字を綺麗に書かなきゃ読んで貰えないぞと思い知らされたテスト。

次に、四年次から六年次までいじめられ続けました。当時の私はまるでミートボールさながらのデブ体型。顔はパンパン。お腹はぶよぶよ。足は遅く、言葉のレスポンスも幾ばくか鈍かった。いじめっ子にとっては格好の標的。学校へ行くたび「デブ!」「こっちに近づくなよ!」といびられ、泣かされ、仲間外れにされたのです。他のみんなだって少し前までは太っていました。成長期が訪れるや否や、太っちょはみんなスリムになっていった。私とその他ごく一部の成長期非・到来組だけが辛い思いを味わったのです。 (人って生まれつきの特性の差異で他の人間を攻撃してしまうんだな…) と残酷さを知った思春期。

最後に、中学受験で失敗しました1広島の最難関校・広島学院に落ち、学院より一段レベルの落ちる中高一貫男子校『修道』へ行くことに。中学受験塾へと通い始めたのは小学四年次の頃から。”私をいじめる奴らと同じ中学へ通わないで済むように”と神様に祈って勉強へ打ち込む日々。広島学院への合格を目指していました。でも、全く届かなかったのです。偏差値で言ったら5は足らなかったかな。トップ校へ行けるほどのアタマの良さはありませんでした。算数が致命的に不得意だった。社会はすごく良くできたものの、社会より算数の方が配点が大きい分、算数で背負ったビハインドを社会で挽回し切るのは構造的に不可能でした。

小学校生活で唯一記憶に残っている良い思い出は、五年生か六年生の時に音楽の授業で参加した音楽コンクールぐらいでしょうか。みんなで演奏したのはZARDの最高傑作【負けないで】。私はリコーダー担当。リコーダー以外できそうな楽器が無く、消去法的にリコーダーを選択。何の偶然か、指定された座席が練習でも本番でも当時好きだった女の子の隣だったんですよね。好きな子の隣って、嬉しいし、ちょっと緊張するじゃないですか?「あ~、ドキドキするなぁ~」と一人で呟きつつ、ミスしないよう細心の注意を払って演奏。本番では一度もミスをやらかしませんでした。演奏終わりに好きな女の子と目が合い、『やったね^ ^』「だねっ^ ^」と笑みを交わし合ったのがハイライト。

中学生時代 (12歳~15歳)@広島

学校生活

暗黒の小学生時代を終えて待っていたのは漆黒の中学生時代。辛かった学校生活はより辛くなってしまい、希望を見出せませんでした。

小学六年生あたりから私にも成長期が到来。徐々に痩せていき、体型のことではいじめられなくなりました。しかし、やんちゃな連中に目を付けられてしまいます。ひょんなことから絡まれ、難癖をつけられ、「次はいつアイツらに襲われるのだろうか…」と怖くて学校で落ち着けなくなったのです。中二の秋なんて、着ていた制服のYシャツをビリビリに引き裂かれましたからね。殴る・蹴るなどは日常茶飯事。刃物をチラつかされて脅されたことも。中学で小学校と同様、いじめを受けてしまうのであれば、果たして自分は何のために中学受験をしたのでしょうか。同級生はもちろん、担任や受験をさせた両親までをも信じられぬ極度の人間不信に陥りました。

こんな滅茶苦茶な状況で学校の成績が良いわけがありません。定期試験の総合成績は270人いる学年全体で200番台、科目によっては250番でした。

乗馬生活

小学校でいじめを受け始めたのを機に、学校以外の居場所を作るべく乗馬クラブへと通うことに。小四のゴールデンウィークに親子三人で廿日市の山奥にある乗馬クラブへ。体験乗馬がめちゃくちゃ楽しかったんですよね。馬の奏でる独特なリズム、ビュンビュン流れゆく馬上での風景など、溢れんばかりの非日常感が面白くてたまりませんでした。何故だかあまりよく分かりませんが、太り気味の私でも最初から上手く馬に乗れたのです。一歳で直立二足歩行を果たしたほどのバランス感覚のおかげかもしれません。自分の乗馬適性を強く確信しました。両親に「乗馬、やりたい!」と懇願して乗馬クラブへ入会させてもらったのです2

毎週土日に乗馬クラブへ行きました。一日1~2回レッスンを受け、インストラクターからのアドバイスを参考に技術の向上を図る形。小さい頃って技術の吸収が早いんですよ。まるで水を吸い込むスポンジのように次々と体がテクニックを覚えていく。あっという間にレベルアップ。ビギナークラスから初級クラスへ、そして中級クラス、最終的には上級クラスまで到達。

中学受験を挟んで中一から乗馬を再開。障害物を飛び越える正確さや速さを競う【障害馬術】を専門的に学びました。初めて出た競技会でいきなり優勝。練習すればするほど上手くなり、上手くなればなるほど競技で勝てるという好循環。何度か壁にぶつかって躓きはしたものの、順調に競技レベルのステップアップを果たして上り調子。プロの先生の中に交じって競技に出、入賞や優勝をかっさらってガッツポーズ3

中学三年生からは広島県の代表選手として国民体育大会 (国体)に出場。7月に行われた予選を突破し、10月の本戦に進出。初めての国体ではとある種目で3位。その直後に行われた別の種目へ優勝を逃した悔しさをぶつけ、なんとぶっちぎりで優勝してしまいました。表彰台の最上段から見えた蒼穹の大空は今でも眼裏に焼き付いています。表彰式後、中国新聞社から取材を受け、メダルを噛んで見せたのが懐かしい思い出♪4

国体で勝った途端…

国体で全国優勝した途端、学校での私の扱いがガラリと変わりました。それまでは何やかやと難癖を付けてきた連中がサーっと姿を消したのです。いじめなんてもう起こりません。服を引き裂かれる心配をしなくて済み、学校で心を落ち着けて、かつ笑って過ごせるようになった。国体優勝は私に【結果を出せば周りを黙らせられるんだ】との人生訓を与えてくれました。周囲の人間をギャフンと言わせたければ結果を出すしかない、結果で見返さざるをえない、と。

学校で落ち着きを取り戻した私のテスト成績は急上昇。テストの総合成績は学年最下位層から怒涛の勢いで学年15位まで200位以上伸びていきました。数学で学年主席をとったことも。乗馬で付けた自信が勉強にまで波及し、文武両道の模範的中学生となったようです。中学校の卒業式では国体優勝の件で校長賞を受賞。いじめに打ちひしがれていた入学当初の自分へ「3年後には校長賞をもらっているよ」と伝えてもおそらく信じないでしょうね。

高校生時代 (15歳~18歳)@広島

学校生活

学校で平穏な日々を過ごせるようになったのはとても良かったのです。しかし、国体優勝以前と以後の私の扱いがあまりに劇的に変わりすぎて、かえって学校を信じられなくなりました。良い方向へこれほど簡単に変わるのならば、再び悪い方に転がり落ちるのも一瞬じゃないだろうか、と。学校で人間を信頼して関係を構築したってすぐに裏切られるかもしれない。学校での人付き合いは最低限。知り合いは沢山いたけれども、放課後、一緒に遊んだり喋ったり帰ったりする友達は一人も出来ませんでした。

成績の方は至極順調。自分に合った勉強のやり方をうまく掴めたみたい。学校の定期テストの最高順位は学年総合4位。数学や英語では1位5。他の科目も10位から20位程度の成績。周囲からは”勉強できるキャラ”として扱われました。中学時代の私を知っている人からは『どうやってそんなに成績を上げたの…?』と不思議がられたぐらい。勉強のやり方は頑として教えてあげなかった。だって君たち、私がいじめられ苦しんでいる様子を黙って傍観していたでしょう?

どうも私は日本の学校組織との相性があまり良くなかったみたい。というのも、日本の学校の授業はクラスで誰も落ちこぼれないようゆっくりと進められていくからです。私は高一の段階で学年トップ層に位置していました。トップ層の人間にとって学校の授業はあまりに簡単すぎて、かつ遅すぎます。先生に「もっと早く進めてくれませんか?」と言っても『君に合わせるわけにはいかない』とすげなく断られました。もともと学年最下位層だったから落ちこぼれ側の気持ちも分かるんです。授業のレベルを上げたくても挙げられない先生側の葛藤も理解できなくはなかった。全員の気持ちが分かるからこそ辛いいくら先生に文句を言ったって現状は変わらないと知っているからこそ、無力感を覚えた。心を無にして日々淡々と過ごす。授業中は自分で買った受験参考書に取り組み、学力の向上を図っていました。

乗馬生活

自分の心の居場所は完全に乗馬クラブの中にありました。平日の学校で嫌な思いを味わっても、週末、乗馬クラブへ行けば馬や面白い人たちの元でのびのびと過ごすことができます。正直な所、勉強よりも乗馬の方が得意でした。勉強は努力しなくちゃ点数を取れないけれども、乗馬はそれほど努力しなくてもある程度以上のことはできたのです。ひょっとしたら先天的に乗馬の才能があったのかもしれません。高校卒業後は大学へ行って大企業に就職するよりも、大学なんて行かずに乗馬クラブで働いた方が幸せになれるんじゃないかと思ったほど。教育熱心な親の手前、そんなことは口が裂けても言えません。言ったらホンマに口を裂かれてしまう。乗馬は高校卒業まで。高校を出たら大学へ行って勉強をやる必要がある。

そう、自分の乗馬人生は高校卒業とともに終わりなのです。せっかく得意なスポーツを見つけて存分に楽しんでいたにもかかわらず、乗馬の道を自ら捨てて不得意な勉強の道へと進まねばなりません。虚しく、悲しく、あまりに切ない将来。勉強なんて本当はやりたくない。ずっと馬に乗っていたいんだけれども、運命は私が乗馬への道へ進むのを許してくれませんでした。

あと3年

この三年間で乗馬を楽しみ切るしかない。この三年間が終わったら自分は一生馬に乗れないかもしれないのだから。残酷な宿命を自覚し、高校進学以来、寸暇を惜しんで懸命に練習。勉強なんてそっちのけ。勉強はいつでもできるけれども、乗馬はこの三年間を逃せばもう二度とできない可能性が大だから。不思議なもので、乗馬を頑張っていると勉強の方も上手く行きました。学年総合4位を取った試験は事前にほとんど勉強しなかったテスト。狂奔的な情熱は努力を遥かに上回るみたい。乗馬に捧げた想いが学力パラメータをも突き抜けさせたのです。

高校三年間、国体へ毎年出ました。連覇を狙った高一の東京国体では5位と振るわぬ成績6。”もう一度優勝したい”と願って臨んだ高二の長崎国体では三種目入賞も最高で6位7。最終学年、受験の直前に行われた和歌山国体では7位8今思い返せば「優勝したい!絶対に勝つぞ!」との願望が先走っていました。【優勝】を追いかけるがあまり乗馬を楽しむ余裕を失い、競技中、体に力が入って思い切りの良い走行ができなくなったのです。もう少し楽しく余裕を持って馬に乗れば良かったなぁ。かけがえのない三年間をあまりに勿体ない過ごし方で終わらせてしまいました…

乗馬クラブで練習を頑張っていたら、高二の夏、彼女が出来ました。一歳年下の女の子。似ている女優は黒島結菜さん。水色と夏とカルピスウォーターがよく似合う、とても爽やかな女の子。彼女は腕相撲が強かったです。左腕で勝負したらなんと、負けてしまいました。一応は本気で対決したんですけどね。自らのあまりの非力さに絶望し、以来、家で腕立て伏せをして密かに腕力の向上を図ったのです。彼女とは宮島の花火大会、カープの試合観戦、そしてクリスマスの映画デートに出かけました。漆黒の学生生活に青春の鮮やかな1ページを綴ってくれて本当に感謝しています。

京大受験

さて、話を勉強の方に戻しましょうか。

私の志望する大学はただ一つ、京都大学。中学三年生の頃から一貫して京大志望。吉田寮や熊野寮を始めとするカオスな雰囲気がたまらなく好きでした。大学教員も学生も面白そうな人ばかり。「ココで学べたらめちゃくちゃ幸せな学生時代を過ごせるだろうなぁ」と確信。中三から京大一本に絞って受験対策を開始。中三では英語を、高一では数学を、高二では理科を独習でひと通り勉強。乗馬メインの学生生活だから、学校の休憩時間や授業時間、乗馬練習の隙間時間を使って勉強するしかない。「絶対に京大へ行くぞ!」と高い意識を保って学力を高めていきました。

高三・5月の駿台模試で農学部E判定。 (これはマズいぞ) と危機感を募らせ勉強を頑張った所、夏の京大実戦模試で農学部B判定。望外の結果に驚き、喜びました。調子に乗ってもっと勉強したら、秋の京大実戦で農学部A判定に。トントン拍子で判定が上がっていきました。 (これは受かっちゃう流れやな^ ^) とついつい気が緩んでしまいます。結果、センター試験 [現・共通テスト] にて大撃沈。総合得点が直前の模擬試験で取ったのよりも90点低かったのです。気の緩みと追い込み不足が招いた目を覆うような惨劇。センター試験から二次試験までの間、必死に勉強して挽回を試みるも、二次試験の数学で思い切りやらかして農学部に6点差で落ちてしまいました910

私は特定の雑音を雑音として適切に処理できず、悲しみや怒り、絶望を感じる『ミソフォニア』という病気の持ち主11。感情を揺り動かす主なトリガー音は「鼻をすする音」。学校や模試、入試会場の部屋は密室。鼻を無遠慮にスンスンすすってくる人間が周囲にうじゃうじゃいるのです。誰かが鼻をすするたびに様々な感情が渦巻き始めます。それまでは順調に回答していた自分の手が鼻をすすられた瞬間、ピタリと止まってしまう。集中力や精神力の問題じゃない。脳機能の障害だから、自らの意志ではどうにも解決不可能なのです。いくら勉強して試験に臨んだとしても、鼻をすする人が傍にいたら回答が手につきません。私の大学受験は試験問題に加えてトリガー音との闘いでもあったのです

大学受験浪人生時代 (18歳~19歳)@広島

現役時代は京大一本での受験。京大に敗れた瞬間、その場で受験浪人が決まりました。

浪人生活は河合塾広島校にて送りました。駿台と河合塾とで迷ったものの、監視の目がキツそうな駿台より学生の自主性を信じてくれる河合塾の方が居心地が良さそうだと感じたためです。実際、河合塾は本当に緩かった。ちゃんと勉強して模試で点数を取っている限りは何も言われなかった。勉強していない子もチューターさんから『ちゃんとやらなきゃダメじゃーん』程度の指摘。自らを厳しく律せられる人は順調に成績を伸ばしていけ、自らに甘いタイプの人間はトコトン堕落し、やがて消えていきました。

夏までは現役時代に引き続き京大志望。夏の京大オープン模試にて農学部A判定&冊子掲載。喜び過ぎたのがいけなかったのか、緊張の糸がプツリと切れてしまいました。勉強しようにも気力が湧かない。京大へ受かった気になっちゃって、何もかもに手がつかなくなってしまったのです。また、受験のストレスで持病のミソフォニアが悪化。音へ散々苦しめられ、授業にさえ出られなくなりました12。京大を目指し続けたい気持ちの強さだけは相変わらず。勉強へのやる気や気力が根こそぎ失われてしまった現状、勉強しなくても受かりそうなレベルの大学まで志望校を下げざるを得ません。二浪は無理。絶対に続かない。憧れの京大から北の雄・北大へと志望校を変更

志望校を北大に変えた瞬間、勉強するやる気が不思議と溢れ出てきました。浪人生活を終えられる目処が立ったためか、ストレスは消え、勉強へ前向きに取り組めるようになってきたのです。北大模試では総合理系A判定&5位。このモチベーションを京大受験にぶつけられたら今度こそ合格できそう。しかし、京大について思いを巡らせた次の瞬間、脳が思考を拒否してたちまち思考停止に陥ります。京大合格に向け限界まで追い込まねばならぬ生活を体が無意識に嫌がっていたのかも。もしも次にやる気を失ったら今度こそどこにも受からなくなってしまう。京大への積年の想いを封印して北大を受験することに決定。

センター試験では国語で114/200と大爆死。小説パートと古文パートが壊滅的な出来。その他の科目はおおむね9割以上。763/900 [85%]とまずまずの成績。現役時代の反省を活かし、二次試験まで気を緩めず勉強。二次試験は楽勝。トップと6点差の次席合格にてフィニッシュ1314

大学生時代 (19歳~23歳)@札幌

進学直後からネガティヴな気持ちに苛まれました。「京大から逃げて北大へ行った自分はなんと気弱な人間なのだろうか…」と。志望校を下げた自分のことをどうしても好きになれません。もう一度京大を目指すべく仮面浪人をやってみたけれども、一か月以内でリタイア。やる気を保てませんでした15。何か大学の勉強に打ち込もうと試みた。本当にやりたかったのは勉強ではなく乗馬なので、大学の勉強には全く興味を持てず、講義へ集中しようにも難しい。一年次の夏休み、うだるような暑さの昼空の下、自室で寝転びながら (自分は何のために大学へ進学したのだろうか?) と本気で悩みました。一時は大学をスパッと辞めてしまおうかとさえ思った。辞めたあと行くアテがなかったので辞められなかったけれども。

新歓時期にボーっとしていた結果、部活にもサークルにも入れませんでした。一人ぼっちで悩み苦しむ学歴コンプ理系男子大学生の完成。「流石にマズいぞ」と危機感を抱きます。何かへ情熱を捧げていなければ心の芯まで腐ってしまうかもしれない、と。何かへ一生懸命取り組んでいる時は毎日に充実感を味わえる。逆に、手を抜いたり怠けたりしている時は生き甲斐を感じられず、ウジウジ悩み続けて成長できません。

何かやらなきゃ。出来ることは無いかな? …あ~、もうっ、分からない!考えてばかりでやってられるかっつうの!パジャマで夜道を全力でダッシュ。息が切れるまで走り続けました。額には大粒の汗。心臓はバクバク高鳴っている。あぁ、気持ちがいいな。何だか”生きている”って感じがして心地良い…

以降、毎朝ランニングへと取り組むことに。自身の体を実験台とし、日々の練習で走力を開発。自分に合った練習方法を模索。色々な方法を試してはアレンジ。地道な練習が功を奏し、最初は3kmしか走れなかった自分がフルマラソン、さらには100kmのウルトラマラソンを完走しました。学部二年次・12月に沖縄で走った100kmマラソンは10時間17分16、学部三年次・11月に山梨で走ったフルマラソンでサブスリー [2:59:23]を達成17。ランニングは”情熱の注ぎ場所”として生活に寄り添い続けてくれました。もしもランニングとの出会いがなければ大学の卒業さえ難しかったかもしれません18

大学の勉強に興味が持てないなりに関心の持てそうな分野を探索。その結果、自分は「化学」が好きなんじゃないかと分かりました。高校時代から化学は得意だった。電池反応や無機化学の分野へ特に関心を抱いていた。とはいえ一年次の化学は成績があまり芳しくありませんでした19。有機化学が絶望的に出来ないのです。化学をガッツリ使って研究する分野に行ったらついて行けないかもしれないと予感。化学を”程々に”使って研究できる学科を探し、工学部応用マテリアル工学コースへと移行20

大学院生時代 (23歳~27歳)@札幌&つくば&オックスフォード

研究室生活

二~三年次に受けた授業の中で講義が最も面白かった先生の研究室へと配属。当初希望していた研究テーマとは違うテーマを渡されて (話が違うじゃん…) と早くも面食らわされた。興味のない研究テーマをやっても全然面白くないんですよね。おまけに装置の扱いが超絶難しく、不器用な私には到底使いこなせなさそうでした。研究室配属から三か月後には早くも研究テーマの変更を懇願。希望していたのとは別のテーマを再び渡されてしまったけれども、「コレをやる運命なのかな。受け入れるしかないか…」と文句をグッと飲み込んでテーマを受諾21

私の研究は筑波で行います。使用する実験装置が筑波の某・国立研究所内にあるため、何かデータを集めたければわざわざ筑波まで行く必要があるのです。”限られた出張期間中に成果を出し切らねばならない”との重圧と戦いながら実験。辛いんですよ。データを得られなければ論文を書けないし、ゼミで結果報告もできないし、もちろん卒業なんて無理に決まっています。研究室の他の学生はやる気さえあれば年中無休で実験可能。私だけは年に数か月間、しかもそのうちのごく限られた期間しか実験できません。おまけに実験試料さえ満足に買ってもらえない。実験セル組立用の接着剤やスライドガラス、一部の電極材料はネットにて自費購入。一体何の罰ゲームなんですか。やりたくもない研究をやらされた挙句、実験材料を買うお金さえ出して貰えないなんて。

こんな酷い、訳の分からぬ扱いを受けて悔しかったんですよね。「絶対にあの人 (指導教員) を見返してやるぞ…」とハングリー精神に火が灯りました。滅茶苦茶でクソみたいな環境でも成果を出し、己の実力を証明してみせる。この研究室を離れるとき指導教員へ恨み節のダイナマイトをお見舞いするために。次から次へと馬車馬の如く実験。学部四年次の3月には早くも一報目の学術論文を出版22。実験しすぎて瞼が震え出し、ストレスで胸の回りには蕁麻疹が。それでも手を止めませんでした。死んでもいい。自分の命を代償にしてでもあの人へ一矢報いてやる。

修士一年次の3月、学会で講演賞を受賞23。修士二年次の9月には日本学術振興会特別研究員DC1 (学振DC1)へ内定24。その翌月には主著論文が海外の超一流誌に掲載25。博士進学後も苦労しながら論文を出版し続けています26。修士二年次の12月には沖縄で100kmマラソンに挑戦。学部二年次の記録を1時間以上更新し、9時間1分17秒でフィニッシュ27。77秒差で9時間を切れなかったのが悔しかった。博士二年次の12月、沖縄に忘れた77秒を取り返すために再び100kmへ挑みます。

オックスフォード大学留学

博士課程一年次の10月初旬から1月中旬まで3か月半ほど留学に行きました28。渡航先は世界最高の名門校【オックスフォード大学】。身銭を切っての留学になります。学部時代からアルバイトで貯めたお金、そして学振DC1として頂いていた給与と研究費を使っての渡航。将来は海外での就職を考えていました。”今回の留学を将来的な海外挑戦の足掛かりにできれば”と願って出発。

…結果は散々でした。実験をしに行ったにもかかわらず、実験ひとつ行えないまま無念の帰国。研究室に人が居なかったから、誰かと友達になろうにもなれません。かといって何か実験しようにも、実験装置や測定機器が軒並み壊れていて使い物にならなかった。オックスフォードへの渡航費や滞在費、大学への在籍料など合わせて200万円が無駄に。お金だけじゃない。夢も、希望も、時間も、気力も、海外への憧れも何もかも砕け散りました29

留学では色々な国からやって来た学生とワイワイ騒いで友情を育めるものと思っていました。そこまで順調にはいかずとも、せめて私を受け入れてくれた研究室の教授とぐらいはパートナーシップを築けるものと考えていたのです。誰とも人間関係を築けないだなんて渡航前には思っていなかったな。教授とも一回喋っただけでサヨナラだなんて青天の霹靂。こうなると事前に知っていたら、おそらくはイギリス留学になんて行かなかったでしょうね。イギリスへ行って何を得られたのか、正直、今になってもまだ自信を納得させられる説明ができません。

進路選択

イギリスから日本へ帰る直前に進路を選びました。海外就職しようと思っていたけれども30、研究者として今までやってきた研究を続けようと思っていたけれども31、どちらも諦めて日本の民間企業へ就職することに決めたのです32。自分に海外との縁は正直、全く感じません。海外に対する想いは私からの一方通行なのだと留学で分かりましたから。おそらく研究者にも不向きでしょう。せっかちすぎて、かつ悲観的過ぎて研究へ致命的に不向きなのです。自分を誰かに最も高い値段で買ってもらえそうな時期は博士課程修了直後33。ポストドクターになんてなったら誰にも買ってもらえぬまま歳だけ重ねちゃいそう。

どうせ就職するのであれば自分の生まれ育った故郷で働きたい34。慣れ親しんだ乗馬クラブでもう一度乗馬をやれるぐらいの給与が欲しい。これまでの研究経験で培った知識を多少は活かせて働けたら嬉しいな35。企業を絞り込んでいったら最終的に候補は一社のみとなりました。自分が働いてもいいかなと思えたのは広島の某・大企業一社 (A社)だけ。1月中旬にA社へアプローチ。履歴書と研究概要と希望業務内容をメールで送った所、すぐに最終面接に案内されたのです。面接でも終始和やかな雰囲気36内々定🌸を貰いました。就活は一打数一安打の打率十割にてフィニッシュ。

私の就職は2025年4月。博士課程を一年早期修了しての企業就職になります。飛び級のためには標準年限で博士号を取るよりも多くの研究業績が必要37。今は飛び級を成功させるべく、体の中に残っている気力をかき集めて絞り出し、命を懸けて本気で研究に打ち込んでいる所です。飛び級に成功するかどうかは正直、まだ分かりません。途中で気力が尽きればそこでおしまいだし、業績を集められたとしても、博士論文審査会でヘマをやらかしたら無慈悲に一年が加算されます。要するに現在、【人生をフルbetして本気で臨む天下分け目の戦いの真っ最中】というわけです。気を抜いた瞬間に潰れかねないスリル感を楽しみつつ、歯を食いしばって生きています。

将来のこと (27歳~)@広島

そもそも私がUターン就職を決断したのは、広島で人生を再出発したいと思ったから。就職を機にこれまでの生活を一旦リセットするなら地元がいいなと考えたのです。私は広島で生まれ育ち、札幌で学び、オックスフォードで闇を見てきました。このまま広島に帰らず、世界を転々としながら働くノマドワーカー的な生き方もアリ。自身の性格を鑑みたとき、精神を安定させるためには何か堅牢な拠り所が必要だと感じます。どれだけもたれかかってもドッシリと構えて受け止めてくれる、少々の甘えを許してくれる場所が必須。私がこの地球上で寛げる場所は広島か札幌の二カ所しかありません。札幌には働きたいと思える企業が無く、広島にはあったから広島で働くことを選んだのです。

広島で勤める会社にはできるだけ長く勤められたらと思っています。転職前提の生き方は嫌。転職しないで済むのならそれに越したことはありません。もしも会社が傾いた時、あるいはもっと大きなチャレンジをしてみたくなった際、どこか別の会社へ移動できるよう備えておこうと考えています。いつでも転職できる有能な人材になっておくことでもって将来へ保険をかける形。何年勤めるのかな… 8年ぐらいは勤めるのかな。8年後、35歳になったとき、広島や会社への愛着と自身の将来とを天秤にかけてみて今後のキャリアを決めるつもりです。

細く・長く生きるぐらいなら、太く・短く生きてこの世に強いインパクトをもたらしたい。自分の生き方や考え方に共感してくれた人が人生を前向きに生きるヒントを得てくれたら嬉しい。自分が死ぬまでに当サイト『札幌デンドライト』を月間100万PVの超人気ブログに育て上げたい。大学生活や研究室でのアレコレに困っている人をなるべく多く助けてあげたい。もしもこんな不器用で何もできない自分のことを好きと言ってくれる人がいるならお付き合いしたい。自分と一緒になってくれる人のことは命を懸けてでも幸せにします。

脚注

  1. 【2010中学受験体験記】修道中学校に合格した一部始終 ~小学四年生から受験シーズンまで~ [*2024年冬公開予定] ↩︎
  2. vol.1 小学4年生、乗馬を始める|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  3. vol.4 中学1年生、勝ちまくる|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  4. vol.6 中学3年生、国体で勝つ|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  5. 学校の定期試験で英語の学年順位を270人中260位から1位まで上げて帰国子女に勝った勉強法 ↩︎
  6. vol.7 高校1年生、連覇はならずも|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  7. vol.8 高校2年生、恋に乗馬に|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  8. vol.9 高校3年生、夢に破れる|青春駆ける ~馬術に情熱の全てを捧げた10年間の成長の足跡~ ↩︎
  9. 京都大学農学部に春E判定→夏B判定→秋A判定から6点差で不合格になった高三時代の話【A判定の呪縛】[*2024年冬公開予定] ↩︎
  10. 【不合格体験記2016】現役時代に京都大学農学部にA判定から6点差で落ちた一部始終 ↩︎
  11. ミソフォニア(音嫌悪症)とは?辛さは?治るの?ミソフォニア歴11年の私が解説 [*2024年夏公開予定] ↩︎
  12. 【ミソフォニア・HSP】音に敏感な受験生専用の集中力を高める勉強法 ↩︎
  13. 【大学受験浪人体験記2016】京都大学農学部に落ちてから北海道大学総合理系へ合格するまでの一部始終 ↩︎
  14. 【合格体験記2017】北海道大学総合入試理系 (総合科学選抜群)へ2位で合格した一部始終 ↩︎
  15. 大学受験 仮面浪人失敗体験記 ↩︎
  16. 沖縄100Kウルトラマラソン2018 体験記 ↩︎
  17. 【サブスリー達成】富士山マラソン2019 体験記 ↩︎
  18. 【就活】ガクチカに『ランニング』を使う時にアピールすべき5つのポイント ↩︎
  19. 【北大】総合理系とは?人気学部や高い移行点の取り方、私の一年次の成績を大公開! ↩︎
  20. 【北大】総合理系在籍中の志望学部・学科の変遷 ↩︎
  21. 研究室生活春夏秋冬vol.4 B4・6月 初めてのつくば出張と研究テーマ変更 ↩︎
  22. In Situ Observation of Cu2+ Concentration Profile During Cu Dissolution in Magnetic Field ↩︎
  23. 国内の化学系全国学会で学会賞を獲得した方法 ↩︎
  24. 学振DCの存在を知ってからDC1に内定するまでの軌跡 ↩︎
  25. Mass Transfer during Electrodeposition and Dissolution of Li Metal within Highly Concentrated Electrolytes ↩︎
  26. 学術論文が四回連続のリジェクトを経て五度目にアクセプトされるまでの一年間【ビッグジャーナル行脚の果てに】 ↩︎
  27. 【体験記】沖縄100Kウルトラマラソン2022 レース当日の一部始終 ↩︎
  28. 週刊オックスフォード ~世界最高の英国の大学で研究留学に挑戦した記録~ ↩︎
  29. 週刊オックスフォード最終回 不本意な形での帰国。この留学を自身の将来にどう活かすか【打倒・オックスフォード】 ↩︎
  30. 長年の夢だった研究者になるのを諦めた理由 ↩︎
  31. 海外でキラキラ輝く研究者人生を送りたかった人生だけれども、無理だった ↩︎
  32. 【博士就活】大学院修了後の就職先を民間企業に決めた理由 ↩︎
  33. 【博士就活】自分を一番高く売れる時期はいつか? ↩︎
  34. 【Uターン就職】どうして広島に戻るのか?7年離れて気付いた広島の魅力とは[*2024年5月投稿予定] ↩︎
  35. 【博士就活】就職活動と企業選びの軸について ↩︎
  36. 【博士就活】大学院博士一年次に受けた大企業メーカー最終面接のハイライト ↩︎
  37. 博士課程早期修了への道†1 指導教員へ早期修了を宣言。博士論文提出に必要な最低投稿論文数を知る ↩︎

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