- 博士一年・3月 まだ誤差の範囲
- 博士二年・6月 賽は投げられた
- 博士二年・2月 天は人の上に年収を作る
- 会社員一年目・4月 置かれた場所で、咲けるのか
- 会社員一年目・6月 パワー・ポッター
- 会社員一年目・7月 失われた研究生活を求めて
- 会社員一年目・10月 活字をくれと、叫ぶ秋
- 会社員一年目・12月 もうあと一年、踏ん張ろう
- 会社員二年目・5月 初夏にして希望は潰え
- 会社員二年目・6月 今のままではいけないと思っているが
- 会社員二年目・6月 転職活動開始
- 会社員二年目・6月 会社員二面相
- 会社員二年目・6月 奥の手は、人の手
- 会社員二年目・7月 最終面接ウィーク
- 会社員二年目・7月 送信は、揺られるままに
- 会社員二年目・7月 お時間、よろしいでしょうか?
- 会社員二年目・7月 去り際の芝は蒼い
- 会社員二年目・8月 有意差あり
~前作~
六社連続で落ち、転職エージェント経由でも二社落ちて、一時はもうダメかと思った。転職を諦め、三年目の終わりまで勤め上げようと覚悟を固めかけていた。
何かの拍子で風向きが変わり、三社連続で選考を突破。三社とも最終面接を乗り越え、めでたし、めでたしとなった。待遇と仕事内容を考慮し、素材メーカーのX社を転職先候補筆頭に掲げた。
X社から内定をいただいた夜、転職エージェントさんから電話があり、お祝いとねぎらいの言葉をいただいた。メーカーからメーカーに移る人で200万も待遇が上がる人はなかなかいないらしく、「凄いことなんですよ!」「マジで自信持ってください!」と言ってもらえた。私への提示年収が高ければ高いほど、エージェント側に入ってくる額が増えるし、担当者としては嬉しくて仕方がなかっただろう。
X社は私を必要としてくれている。面接終了から三分で追いかけてきた事実からも、高く評価してくれているのが伺える。彼らは私を研究人材として迎え入れるつもりらしい。電池材料を研究したい自分にとって、X社の環境はこの上なく魅力的である。加えて、現職から年収が3割近く上がるときたら、X社で働く以外の未来を考えられなくなった。
X社の中を見せてもらって、現職の職場を見せてもらったときに抱いたような違和感はなかった。現職で打ちのめされて感覚が麻痺しているからか、会社に順応できそうだからなのかは定かではないが、いずれにせよX社勤務を前向きに考えられた。
・・・・・・・
関東から広島に戻り、土日を挟んで月曜を迎えた。
まず、自動車部品大手のT社に内定辞退を連絡した。T社から理由を尋ねられ、残業30時間以上はキツすぎるとか、家賃補助がないのは無理ですってとか、現職より年収が下がるのはないっすよといったことを伝えた。いい会社なのは間違いないが、私が求めている条件とは嚙み合わなかった。
火曜には、自動車大手H社の内定を辞退した。待遇や事業内容は魅力的だが、そもそもの事業内容がコロコロ変わっているがゆえに、腰を据えて仕事できなさそうな気がすると伝えた。H社の社員さまは魅力的な方ばかりだったし、一緒に働けないのは残念である。
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残るカードはX社である。X社の内定を承諾すべく、転職エージェント向けのメールを作った。送信ボタンを押す間際に、ちょっと待てよと思い止まった。
確かにX社は魅力的である。事業内容も待遇も申し分なく、X社に移れば今の不満は解消されるだろう。しかし、本当にいま移っていいのか。現職でやり残したことはないのか。全力でやり切ったと言えるのか。何年後かに現職での経験を振り返ったとき、中途半端なまま離れてしまったなと後悔することはないか。
広島を離れて札幌で八年暮らし、北海道から広島を客観視した。風光明媚で食べ物が美味しく、夏以外は温暖で過ごしやすい。何と言っても我らがお好み焼きがある。麺無しのぽんぽこりん小麦爆弾ではなく、本流真打ちの極道お好み焼き屋が軒を連ねている。広島に、戻りたかった。キャリアとか仕事内容などあまり深く考えず、故郷に戻りたいからUターン就職した。
札幌やオックスフォードを経て、八年ぶりに広島へ帰ってきた。一年でも早く広島に戻りたいと考え、喀血するほど追い込んで研究し、博士課程を一年飛び級修了して故郷に帰ってきた。ここまでして帰りたかった広島を、そう易々と離れていいのか。こんなに落ち着いて過ごせるこの街から出ていくだなんて考えられるか。X社の本拠地に対して、広島以上に愛着を感じられるだろうか。
それに、現職では人間関係に恵まれている。ときどきハシゴを外してくる油断ならぬファンタスティックなボスのもと、チームメンバーで協力して仕事を進め、週に一度の対面ミーティングでは和気あいあいと話せている。仕事内容はこれっぽっちも面白くないが、ここまで素晴らしい人間関係は、他では得がたいのではないか。
待遇がイマイチで仕事も楽しめず、プライベートまでズタズタで、いつ辞めたくなっても不思議ではなかった。こんな自分が辞めずに続けられたのは、周りの方々が温かな居場所を与えてくださったおかげであろう。これほど恵まれた場所を、いま手放していいものだろうか。
・・・・・・・
現職に残るか、転職するか、X社への返答期限の前日まで悩んだ。
意思決定にあたって、まず現職とX社それぞれに対して思うことを列挙してみた。感情的な判断ではなく、理性に基づいてジャッジするために。
| 現職 | X社 |
|---|---|
| ◎故郷の広島に住み続けられる 〇最高の人間関係 〇気軽にお好み焼きを食べられる 〇エディオンピースウィング広島でサッカー観戦できる ×とにかく仕事がつまらない ×現職に長く居たところで、やりたい仕事はできない ×年収が低く、あと二年で家賃補助が切れる ×事業がレッドオーシャンで、競争力を失いつつある ×常時、経営が不安定で、次世代事業など育てる余裕がない | ×広島から離れる △人間関係は未知数 ×気軽にお好み焼きを食べられなくなる ×ホームスタジアムでサッカー観戦できなくなる 〇やりたかった仕事に携われる 〇現職より年収が200万円高く、恒久的な家賃補助制度がある 〇コア事業で独占的立場にあり、経営盤石 〇将来の柱となりうる次世代事業に投資している |
次に、もしタイムスリップして新卒就活をやり直すと仮定し、現職とX社のどちらを選ぶか考えた。現職のネガティブポイントを全て理解し、そのうえで現職を選ぶだろうか…
答えは明瞭にNoだった。やりたいことが永遠にできず、年収が低く、いつ潰れるか分からない企業に勤めるのは難しい。どれほど広島が大好きだろうと、それはそれ、コレはコレである。広島が好きなら、長期休暇で帰ればいい。お好み焼きが食べたくなったら、自分で作って食べればいい。論理的な帰結は『X社への転職』である。100人に意見を求めれば10000人が転職しろと返すだろう。
自分でも移った方がいいと頭では分かっている。それでも、なかなか踏ん切りをつけられない。私は広島が好きなんだ。離れるには広島を愛しすぎてしまった。この街から住民票を移す日を思えば、苦しくて何も考えられなくなる。上に記したテーブルを紙へ文字起こしし、自室の壁にガムテープで貼った。X社への返信期限まで毎晩煩悶を重ねた。
・・・・・・・
返信期限当日の朝、メール送信画面を開いた。このボタンを押せば、X社への転職が決まる。押したが最後、広島から離れて暮らす日々が訪れる。押さなきゃいけないのに、なかなか押せない。誰か代わりに押してくれたらいいのに。
どうしても自分では押せそうになくて、Claude codeにメール送信プログラムを作ってもらった。送りたいメールの原稿とアドレスを提示し、自分の代わりにメールを送ってもらうよう指示しようとした。そうしたら、今度はプログラム作成開始ボタンを押せなかった。これを押したらメールが送信されてしまうと思うと、喉の奥から熱いものがこみあげてきて、クリックできなくなった。
メールを送れないまま会社に向かった。通勤電車の中でメール画面を開き、押そうかな、でも押せないよなとモヤモヤしていた。
悩んでいたとき、電車がガタンと揺れ、横に立っていた乗客にショルダーアタックされた。その瞬間、親指が送信ボタンに当たり、メールが転職エージェントに送られた。自分の意志で押せなかったボタンを、不慮の事故で押すことができた。
隣の人からすごい勢いで謝られたが、「ありがとうございます」と返した。怒るだなんてとんでもない。あなたは私の恩人ですよ。相手は首を右斜め45度に傾けていて、キョトンとしていた。もう一度「ありがとうございます」と伝え、会社最寄り駅で降りた。
送信は、揺られるままに。
第十五章の学び
・人生の岐路は理性で決めるべし
・迷ったら紙に書き出してみるべし
・押せないボタンは満員電車に任せるべし
・広島のお好み焼きはうまい
~次作~
Coming soon…


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