博士転職活動記vol.8|会社員一年目12月 もうあと一年、踏ん張ろう

~前作~

量産開発の仕事が嫌で嫌で仕方がなかった。狭く・深くが得意の人間に、広く・浅くを求めるのは酷というものだ。前向きに取り組まねばといった気持ちはあれど、所詮はモチベーションを伴わない空元気で、身体が追いついてこなかった。

とにかく会社に行くのが辛かった。辛すぎて、起き抜けに吐き気を催すほどだった。日曜夜にはサザエさんシンドロームを患い、おかげで土日もロクに休めない。業務中、パソコン画面の見過ぎで視力が落ち、趣味の読書も旅行も楽しめなくなった。ああ、本当に面白くない。

強みを伸ばすのなら頑張れる。90点を95点や99点まで上げる努力は厭わない。得意だと分かっているものは取り組んでいて楽しいし、寝食を忘れて没頭できる。携わる時間へ比例するようにして成果も伴ってくるし、だからこそもっと頑張ろうとシャカリキになれる。

だが、できないことを人並みにできるようにするのは大変である。人には人の乳酸菌で、人それぞれ生まれ持った特性がある。私に量産開発を課すのは、前進に特化した人体へ後ろ向きに歩くよう強いるようなもの。つまり、どうやったって無理なのだ。生成AIを使ったり周囲からのアドバイスを受け入れたりして、数年後には同世代の半人前ぐらいにならなれそうだが、一人前になるのは適性的に厳しそうに思えた。

筋トレやランニングなどのフィジカル種目なら、継続すれば誰でもそれなりに成果が出る。まぁ、継続するのが最難関なのだけれども、継続さえできれば何とかなる。私自身、小学生までは学校でミートボールと言われるほどの肥満体型だった。変なあだ名をつけられるのが嫌だったから、無理のない負荷で運動を長期間継続し、いつしかBMI19台のスラッとした体型になった。継続的な努力の効果は、よく理解しているつもりである。

私が運動を続けられたのは、運動の敷居を低くしたからだろう。最初は10分でいいから外で体を動かすようにし、慣れてきてから徐々に時間と強度を拡張していったから続けられた。

量産開発業務の場合、いきなりハイレベルの仕事が降ってくる。会社員である以上、こちらから仕事を選ぶなんて無理なわけで、どんな仕事も粛々とこなしていかねばならない。難しい宿題を課され続けた小学生が勉強嫌いになるように、何が何だかサッパリ分からん開発系業務へ取り組むうちに仕事嫌いをこじらせた。

もういい歳をした大人なのだから、歯を食いしばって我慢しなければならない。そんなことはよく分かっているけれども、研究の方が向いているのを知っていながら、明らかに適性のない仕事に取り組むのがしんどかった

その水に馴染めない魚だけが、その水の事を考える。

・・・・・・・

辛いなりに仕事を頑張っていると、辛さを感じるまでの閾値が上がってきた。同じ負荷をかけられても、前なら音を上げていたのが、耐えられるようになった。量産開発業務のスピード感に慣れてきたのだろう。あるいは、「仕事ってだいたいこんなものだ」と心が受け入れてくれたのか。いずれにせよ、以前ほどには仕事が負担に感じなくなっていた。

今までは、真剣にやろうとしすぎて、肩に力が入りまくっていた。大学受験からの悪い癖で、本気になればなるほど力が入ってしまう。全身の力を抜くよう心掛ける。目をつむり、空気の出し入れにのみ意識を傾け、梵我一如の境地を目指す。無意識に力もうとした時には”落ち着け”と自らに言い聞かせた。

辛さに慣れてきはしたものの、ときどき思い出したように辛くなる。そういうときは、辛さをやり過ごすよう意識した。苦しみはあくまで一過性で、耐えていれば嵐は収まる。苦悶の程度が大きければ大きいほど、雨上がりの虹が美しく見える。試練を乗り越えたあとの爽快感はよく知っているし、こんなところで負けてたまるか、必ず仕事をやり遂げるぞと奮起した。

博士課程でイギリス留学したとき、スコッチウィスキーの味に目を見開かされた。日本に帰ってきてから、やけくそになったときはウィスキーをショットで飲むようにしている。会社でためたストレスも、お酒の前には雲散霧消する。スーパーでブラックニッカと炭酸水を買ってきて、ひと口目はウィスキーで、ふた口目はハイボールで、〆はまたウィスキーを嗜んだ。

強めのお酒を飲むと、脳を殴られたような感覚になる。とにかく、本当に気持ちがいい。会社で起こった嫌なことを全部忘れられる。ついでに覚えておかなきゃいけないことまで忘れてしまい、仕事がなかなか進まなくなる。いいんだか、悪いんだか。圧倒的に悪い。

・・・・・・・

相変わらず仕事は楽しくない。だが、辛いなりにやり過ごす方法も見つけたし、耐えられるかもと思い始めた。配属直後のような絶望感は、遠くどこかへ消えた。辛さが許容範囲である以上、すぐさま辞める理由はない。ま、辞めるといったって、在籍一年未満のピヨピヨ博士を雇ってくれる大企業は皆無で、しがみついて働くしかないのだけれども。

もうちょっと、頑張れるんじゃないかな。この会社でもうしばらく頑張れるんじゃないか。五年や十年は厳しくとも、せめて一年や二年なら続けられるかもしれない。

幸運にも、周囲を取り巻く人間関係はマンマ・ミーアであった。ひと癖もふた癖もある奇人ユーモアのある方たちで、人間的にも尊敬できる方々である。この会社は、人間関係に限っては最高だった。年収や福利厚生は業界下位でも、どんな条件をも上回るほど人間関係が良かった。このチームを離れたくないと、心から思わされた。

まずは、もうあと一年、踏ん張ろう。未来のことは、一年後にまた考えよう。

第八章の学び
・人には人の乳酸菌
・辛さは慣れたら落ち着いてくる
・お酒を飲むならブラックニッカ
・広島のお好み焼きはうまい

~次作~

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