北大博士課程を一年短縮修了し、地元の大企業へUターン就職しました。
企業で使う名刺には博士(工学)と印刷されています。それも、飛び級で取った博士号。周囲からの期待は否応なく高まりますし、”将来有望”と見てもらえるから、悪い気はしません。
ただ、その期待が、あまりに重いんですよ。
相手に名刺を差し出すたび、博士号の名に恥じないパフォーマンスを出さなきゃと力む。会議で発言するとき、資料をレビューするとき、頭のどこかでずっと「博士なんだからちゃんとしろ」と自分を追い詰めている。飛び級までしておいて中身が伴っていなかったら、目も当てられませんよね
認めざるを得ないでしょう。私は、名前負けしています。
この記事では、博士号を取ったけれど名前負けしている実情を、飛び級博士の当事者としてお話しします。博士課程への進学を考えている方、いま在籍中の方、すでに博士号を携えて働いている方に読んでいただけたらうれしいです。
かめそれでは早速始めましょう!
博士といえば、何でも知っている人?


皆さんは「博士」と聞いてどのような印象を持ちますか? 私の周りでよく聞くのはこのあたりです↓
- 研究好き
- 変態
- プライドが高い
- 社会不適合者
研究好きはそのとおりでしょう。変態もまぁ否定しきれません。プライドが高い人は、一定数います。社会不適合者は、ちょっと悪口がすぎますかね。やめてもらえませんか。
私がまず思い浮かべるのは、物知りのイメージです。お魚博士やお肉博士とか、ポケモン博士などが有名ですね。博士と名のつく人は、総じて物知りな印象があります。
ここからもう一歩踏み込んでみましょう。博士は何でも知っている人だと思いませんか。何を聞いても答えが返ってくる。知らない分野はない。万物に精通した教養人。現代に蘇ったレオナルド・ダ・ヴィンチ。サグラダファミリアの完成を任せられるのも、博士しかいない。さすがに盛りすぎました。
ですが、”博士”と聞くと、何だか凄そうに感じてしまうのは事実でしょう。博士号には、コイツなら何でもできそうだと周囲に錯覚させる魔力があるんですよね。
博士だからといって、何でも知っているわけではない


では、博士は本当に何でも知っているんでしょうか? 自分の専門領域はもちろん、他分野の知識もしっかり備えているのか。
博士族の一員としてお答えします。私は博士課程を早期修了しました。在籍中に英語論文を五報書き、国内外の文学書もそれなりに濫読してきたつもりです。その上でハッキリ言います。
博士だからといって、何でも知っているわけではありません。
私に限った話ではなく、博士号を持つ方の多くにも当てはまります。幅広い教養を備えている方なんてごく僅かです。それどころか、自分の専門分野ですら怪しい。もちろん、何を研究していたかは言葉で説明できますよ。でもいざ自分の研究成果を見つめ直してみると、「自分、全然何も分かっていないじゃないか…」と頭を抱えたくなります。
博士号の審査で問われるのは専門性であって、リベラルアーツではありません。全分野に通じているかなんて、誰も聞いてきませんから。博士課程で規定の論文数を出版し、学位審査に合格すれば、学位は授与されます。審査の焦点は、あくまで専門領域のごく狭い一角であり、ここで一定の成果を挙げていればパスできてしまう。つまり、博士号は万物に精通した証ではなく、ひとつの領域で研究成果を出す力を示す証なのです。
博士号をとれば、「無知の無知」に気付く


では、博士号に意味はないのでしょうか? 我々博士人材が苦心して掴んだ学位は、無価値なのか。”足裏の米粒”なんて揶揄する声もありますし、日本で暮らしていて役立つ場面が少ないのも認めましょう。
それでも、博士号には価値があると思います。もっとも、博士号そのものに高い市場価値があるかと問われると、首を縦には振りづらい。博士号を取る過程で培われる技能やものの見方にこそ、本当の価値があります。
なかでも、無知の無知への自覚が最も重要だと感じています。
研究を続けていくと、ある時点で気付かされます。自分は何も知らなかったし、何も知らないことにすら気付いていなかった。無知の無知を自覚した瞬間、もう現状の知識量では満足できなくなるんですよね。己の無知を心から恥じるようになり、謙虚に学び続ける姿勢が根付くのです。
登山に例えるなら、目の前の山を必死に登って頂上に立ったとき、初めて周りが良く見える感じです。遠くを見渡して、気付くわけですよ。もっと高い山が周囲にいくつもあったのだと。
博士課程はまさに登山過程にあたり、学位取得で一旦は山頂に立てます。けれども、山頂はゴールではなく、次の山へ向かうための途中休憩所にすぎないのです。
博士号を取ってからがスタート


博士号を取って満足するか。取った地点をスタートラインとするか。どちらを選ぶかで人生は大きく変わってくるでしょう。
博識で何でも知っていそうに見える博士ですが、実態はお伝えしたとおり、専門のごく狭い領域で成果を出した人間にすぎません。自分の力を応用するポテンシャルはあっても、他分野の知識を持っているとは限らない。
博士号を取って初めて気付くんです。あれだけ勉強したはずなのに、自分は何も知らなかったのだと。
私は大学受験で一浪して北大に合格しました。合格発表の夜、父にこう言われたんです。



人間、一生勉強せなアカンぞ
これからもちゃんとやれよ
受かった日ぐらい手放しで喜ばせてくれよ、と当時はげんなりしましたね。ほめ言葉のひとつもないのかと。鼻に一味唐辛子パウダーを吹き込んでやろうかと思いました。
あれから九年。博士号を取って一年が経ったいま、あの夜に父が放った言葉の真意がようやく分かりかけています。
人間は一生勉強しなくちゃダメです。博士号を取って無知の無知を自覚したなら、なおさら学び続けなければいけません。成長を止めた瞬間に後退が始まります。現状に甘んじていたら、現状維持すらおぼつかなくなる。我々がサルではないと証明するには、日々学んで前に進むしかありません。
学びの姿勢を長く持ち続けた先に、博士号の名前に負けない自分がきっといるんじゃないでしょうか。少なくとも私はそう信じて、今日もボコボコにされながらやっています。あー、辛い。


















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