【不合格体験記2016】現役時代に京都大学農学部にA判定から6点差で落ちた一部始終

目次

2016年3月9日:合格発表当日

9時:A判定だったし、落ちるわけがないと思っていた

高3の11月に行われた京大実戦模試(駿台)で、私は農学部資源生物科学科A判定を頂いていました。

8月の実戦模試ではB判定だったため、B→Aと順調に成績が伸びているのだと考えていました。

模試結果に裏打ちされた自信により、(京大入試も余裕で突破できる)とかなり強気に朝を迎えました。

入試自体の手応えはあまり良くはなかったのですが、

かめ

A判定だった自分が不出来だったのだから、周囲の出来はもっと悪いだろう。少々点を落としても自分の実力ならば大丈夫♪

このように思い、落ちることなど全く想像していませんでした。

確かに、センター(現・共通テスト)の点数は82%とそんなに良いものではなかったのです。

そして、肝心の二次試験でも数学で大問2つを丸々吹き飛ばすなどミスを連発してしまっていて、取るべき点数を取り損ねていた事実は否定できなかったのでございます。

しかし、(A判定だった自分なら大丈夫だ!)と強く信じて疑いませんでした。

いくら試験後に思いを強く持とうと試験結果は変わらないにも関わらず、さも「合格発表までが試験なのだ」と言わんばかりに張り詰めた緊迫感を維持していました。

11時半:徐々に緊張してきた

京大の合格発表は正午から。吉田キャンパスと大学ホームページにて、合格者の受験番号が掲示されます。

運命の結果発表を30分後に控え、私の顔は徐々にこわばっていきました。

(あと30分後には京大生の仲間入りか…)と思うと今までの苦労が思い出されて感慨深くなったし、(果たして本当に合格しているだろうか?)と考えると若干不安にもなってきました。

現役時代の高三次、私は京都大学農学部のみに出願しました。

京大との一騎打ちに全てを賭け、勝てば天国・負ければ地獄の大勝負に打って出たのです。

したがって、もし京大に不合格となれば、自動的に受験浪人が決定してしまいます。

今になってようやく、(私大も受けておけばよかったかなぁ)と後の祭りを演じたのでした。

12時:合格発表開始

吉田キャンパスに足を運ばず、広島の実家で合格発表を迎えました。

受験結果を知るには京大のホームページにアクセスするしかないのですが、発表開始直後はアクセスが殺到するだろうから、少し時を置いたのちサイトをのぞく事に決めていました。

どれぐらい待てばアクセスが落ち着くかあまり見当がつかず、(5分ぐらい待てば良いんじゃないか?)と考え、運命の結果発表の刻を12時5分と定めました。

そこからの5分の長いこと長いこと。 心臓が早鐘を打ち、まるで生きた心地がしませんでした。

12時2分、3分と時が進み、私は3秒おきに時計をチラチラ確認し始めちゃいました。

かめ

早く5分になってくれっ!でも結果を知るのは怖いなぁ…

と、京大との一騎打ちの結果を知りたくもあり、永遠に知らないままでいたくもあったのです。

12時4分30秒となり、手元のiPhone5を起動し、”京大 合格発表”と検索をかけました。

そして、合格発表特設ページに進み、受験した農学部の結果をスクロールしてみました…

12時5分:()

私の受験番号は0439。語呂よく”ヨッシャ、サンキュー!”と覚えていました。

そして、早々と「サンキュー!」と叫ぼうと思ったのですが、農学部の受験者数は700~800 (900?)人いたため、400番台に辿りつくのに画面をかなりスクロールしなければなりませんでした。

300番台の掲載を見届けて、お待ちかねの400番台に突入しました。

いきなり自分の番号が目の前に現れたら心臓が止まってしまうと思ったので、そこからは一番一番ゆっくりとスクロールし、430番台に入った段階で覚悟を決め、「えいやっ!」と一気に画面を下げました。

ん?

最初、目の前で何が起こったのか分かりませんでした。

というのも、0439を見ぬまま440番台に入ってしまったのです。

かめ

いやいや、ちょっと待って!流石に見逃しただけだよね…??

そう考え、430番台と440番台を何度も何度も行き来しました。

しかし、肝心の我が番号はどこにも見当たりませんでした。

強く目をこすり、目薬をさし、もう一度だけスクリーンを凝視しました。

それでも番号は発見できず、私は京大に不合格となってしまったことが明らかになりました。

全く現実を受け入れられなかったので、工学部や理学部など、他の学部の発表まで確認しに行きました。

しかし、もちろん私の受験番号はそこにはなく、「あぁ、落ちたんだ」とようやく事態を飲み込めました。

そしてその瞬間、絶対流すまいと決意していた大粒の涙が目元から一気にあふれ出てきました。

  • あれだけやったのに報われなかったのか…
  • 何で自分は落ちたんや!悔しすぎて訳分からんわ

などと考え、(人間ってこんなに泣けるんだな笑)と笑ってしまうほど盛大に慟哭してしまいました…

14時:落ちた事実に少しずつ心身が追いついてきた

1時間近く泣き叫び続け、疲れで少しずつ冷静さが戻ってきました。

そして、”自分が不合格になった事実”を心身が少しずつ受け入れ始めてきました。

決して納得できる結果ではないものの、受け入れなくては何も始まらない

とはいえ、不合格になったショックはあまりにも大きく、衝動的にアパートのベランダから飛び降りてしまいそうになりました。

15時頃、お世話になった高校の元へ、不合格を伝えに6kmほど歩いて向かいました。

高三次の担任に「落ちました」と伝えると、担任は「信じられない」と言わんばかりの表情を顔に浮かべておられました。

私だって落ちた結果を信じられないし、「A判定で落ちるなら何判定なら受かるんだよ」と冗談でも一回聞いてみたい気分でした。

学校からの帰り道、外は我が涙の如く大粒の雨が降りしきっていたものの、傘をさす気力さえ湧き上がらず、全身びしょ濡れになって家路についたのでありました。

3月初旬の雨に打たれ、寒くないはずはなかったのです。

しかし、当時の私はすべての感覚がマヒしてしまっており、ただ(悲しい、辛い)としか思えなかったわけであります。

18時:受け入れられないが、受け入れるしかない

いつまでも落ちたショックを引きずるわけにはいきません。

落ちた過去は書き換えられないのだから、自分の手で変えられる現在と未来に目を向けるしかないのです。

A判定からの大逆転不合格は到底許容できるものではないけれども、潔く負けを認めなければ次のステップには進めません。

このような事を頭に浮かべ、どうにか未来を輝かせようとありったけの気力を振り絞りました。

夕方、帰宅した父親に不合格を報告すると、父は私と同じぐらい悲しんでいた。

(こんなに親を悲しませるなんて自分は親不孝者だな…)と考えたのもつかの間、父親は私に

父親

どうして落ちたのか自分の頭で考えてみろ

と、種々の分析項目を書いたレポート用紙を渡してくれました。

落ちた日から一浪して北大に合格するまで、私はそのレポート用紙と毎日にらめっこしながら自問自答を繰り返しました。

  • 理解が疎かだった所はなかったか?
  • 授業や模試の復習をちゃんとやったか?
  • 周囲へ感謝の気持ちを伝えていたか?

など、自己分析が済んでからは日々のTo Doリストとして最大限有効活用させてもらいました。

あれから5年が経過して

不合格の衝撃から5年経ち、ショックは随分と癒えてきたように思います。

北大に入って以来、馬術部やランニング、恋愛に研究室生活など様々な経験をし、受験が全てではないと体で理解できたからでしょう。

しかし、不合格の悔しさは今でも鮮明に記憶しています。

私より一つ学年が上の(現役合格した同い年の)京大生を見るだけでも意図せず歯ぎしりしてしまうほどだし、”京大”とか”京都”とかいった単語を目にした途端、憧憬と嫉妬が頭を支配し、罪と罰に登場するラスコーリニコフの如くその場で卒倒してしまいそうになるのです。

私が研究活動やランニングに全力を尽くせるのは、あの時の悔しさが頭にこびりついて離れないからです。

  • たとえどれだけ傷ついても絶対に京大を見返してやりたい
  • 落とした事を京大に後悔させるほどビッグな人間になってやりたい
  • 不合格により悲しませてしまった親を思い切り喜ばせてあげたい
  • ”第一志望に行けなくても立派な人間になれる”って事を自ら証明してやりたい

こうした気持ちを原動力に、昔も今もこれからも生き続けていくでしょう。

読者さんの中には(そんなのただの学歴コンプレックスじゃないか)と思う方もいらっしゃるに違いありません。

確かにその通りなので認めるしかありませんが、コンプレックスは使い様によっては核融合反応の如く膨大なエネルギーを人に与えてくれるので、コンプレックスを持つのも悪くないと思うし、ポジティブに生きる方向へ進むため積極的に利用すべきだと考えています。

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