やりたかったことはひと通りできた

博士課程に進学した理由は3つ↓
- 自身の限界に挑戦したかったから
- 海外留学してみたかったから
- 限界の中でもがき苦しみ、己の幸福観を構築したかったから
自分の限界の挑戦できたか?
できました。もう”嫌”というほどに。
D1の一年間、一切の実験を行えないなか一年短縮修了を狙うハンデ戦。二度のビッグジャーナル行脚。オックスフォード留学。論文全文書き直し。ストレスフルな日々を乗り越える過程で何度も死線を踏み越えそうに。博士課程では挫折続き。精神へ負荷がかかりすぎたのか、D1の12月には喀血。誰かに助けてもらおうにも、支えてくれる人が居ない。下宿の壁へ新垣結衣さんの顔写真を貼り、眺めて辛さをやり過ごした。苦しくて苦しくて、本当に死ぬかと思った。大学受験浪人時代の100倍は辛かったかな。
海外留学できたか?
できました。D1の10月から3か月半ほどイギリスへ行ったのです。
訪問先はオックスフォード大学。世界最高の研究環境へ身を置いて勉学に励むために。留学先では何もできませんでした。使用予定だった実験装置が物理的に壊れていたからです。実験に取り掛かりたくても始められない状態。渡英に費やした費用は総額300万円弱。これだけ使って何の収穫も得られず、あまりのやるせなさに苦悶しました。
幸福観を構築できたか?
できました。未だにうまく言語化はできないけれども。
辛い毎日を耐え忍ぶ過程で「幸せって何なのだろう」と考え続けました。同じ論文の四回連続リジェクト、イギリス留学失敗や喀血を経て遂に悟りました。結局、幸福は自分の心持ち次第なのです。どのような出来事に見舞われても、幸福と感じる人もいれば不幸に感じる人もいる。両者の違いは人生に対する姿勢。自分の身の回りのイベントを全てプラスに変えてやろうと試みる人が幸せになれるでしょう。プラスに変えようと思わぬ限りは幸せの端緒をも掴めません。
幸福観に目覚めて以来、徹底したプラス思考を心掛けるようになりました。論文リジェクトも留学失敗も成長するための糧になりうるのです。目の前の試練を乗り越えられればよりスケールの大きな人間になれるはず。試練を与えてくれた神様に感謝。未来の栄光を信じて日々無心で突っ走りました。
限界への挑戦。海外留学。己の幸福観の構築。やりたかったことはひと通りできたと思います。
残念ながら、望み通りの成果は得られませんでした。本当は研究者になるつもりだったのです。留学失敗で心がへし折れて企業就職へと舵を切りました。人生、何でもかんでもうまくいくとは限らないってことでしょう。博士課程を修了できただけでも良しとしなければいけません。
進学していなかったらたぶん後悔していた

D1の12月にイギリスで喀血したとき、D進したのを心の底から後悔しました。自ら進んでこんなに辛い思いをしに行った自分はアホなのだろうか、と。当然、企業でも理不尽な思いは味わうでしょう。ちゃんと成果を挙げたのに人事評価に反映されずに「どうして報われないんだ!」と地団太を踏む場面もあるはず。しかし、300万円払ったのに何もさせてもらえぬような理不尽は起こりえません。自らの希望に反する論文投稿先を指定されることもないはず。
では、D進しなければよかったのか? 修士就職しておけばよかったのか? そうとも言い切られぬのが難しい所。D進しなければ限界に挑戦できませんでした。自分の持つポテンシャルに期待し続けた挙句、何も成し遂げられないまま終えるみじめな人生を送っていたかもしれません。
博士課程で限界に直面した際、徹底的にもがいて己の能力拡張を試みました。早期修了を始め、超えられた壁はあります。研究ポジションの獲得や高IFジャーナルへのアクセプトなど、超えられずに諦めた壁も数知れません。結果はどうだっていいのです。己の限界と逃げずに正対したおかげでこれまでの生き方を変革できました。僭越ながら、幸福観のようなものまで手に入れられました。これだけでもD進した甲斐があるというものでしょう。
もしもD進していなければどうだったか。修士修了以降の人生を修了以前と同じ生き方で臨んでいたはずです。自分の中に軸というものがない。他者からの評価や世間体を気にし、常にどこかキョロキョロしながら歩む。なんとカッコ悪い生き方でしょうか。そんな人生、まっぴらごめんです。
博士課程を早期修了したいまの自分には確固たる軸があります。自分の生き方を自分で決める自信が得られました。人生のかじ取りは自分で行う。舟を漕ぐオールは自分だけが握る。進むも引くも、どこへ曲がるかも、一挙手一投足を自分で決めさせてもらう。人生の岐路で如何なる選択をしたって大丈夫。己の歩んできた全行程を正解にする強靭なパワーを二年間で培ったから。
博士課程へ行って正解だったか?

D進の正と負の側面
博士課程へ行って正解だったか? 記事の最後に、この究極の命題について思いを巡らせてみましょう。
心身的なダメージを鑑みたら不正解。
この二年間、ストレス過剰に起因する様々な不調をきたしました。喀血。蕁麻疹。まぶたの震え。イライラしすぎて不眠症に。徹夜みたいな状態で一週間ほど過ごしたこともあります。一番辛かったのが、この辛さを誰にも相談できなかったこと。恋人はいない。友達もいない。親は毒親。後輩にみっともない姿を見せたくなくて、研究室でも愚痴を吐けませんでした。
幸福観を構築できたという点ではD進して正解。
博士課程では、困難と試練の嵐に見舞われました。地獄の底でのたうち回る際、「幸せ」について延々と考えさせられたのです。自分の内面にこれほど思いを巡らせる機会などもう訪れないでしょう。会社で働き始めれば忙しくなる。毎日を乗り越えるので必死になる。幸運にも、会社へ入る前に幸福観を確立できました。自分の幸せは自分で見出す。幸せは自分で掴み取る。誰かに与えられるのを待っているだけではダメだ。
たぶん、正解だった
D進には正の側面と負の側面があります。両方を総合的に鑑みてみると、「D進して正解だった」との結論に至るのです。D進してなければきっと後悔していたでしょう。工学修士として就職する。入社後、企業にいる博士号持ちの人材を見て、嫉妬で頭がおかしくなる未来を容易に思い描けました。
D進により心身へ被ったダメージは甚大です。けれども、D進しなかったらもっと大きなダメージを被ったかもしれません。D進しなかった過去の自分を延々と恨む残念な人生になっていたことでしょう。そんなのイヤ。やらぬ後悔よりやって後悔する方がいい。失敗してもいいから挑戦したい。現に留学で派手に失敗しました。けれども、あのとき留学しなければよかったとは微塵も思いません。
D進しなければ見られなかったであろう景色をたくさん見られました。自分がD進を選んだのは正解だったのではないでしょうか。
我々人間にとって大切なのは、どの道を選んだ後でも「この道を選んで正解だった」と正当化する勇気を持つことかもしれません。悩みに悩んで選択を下した。決断を正当化できるだけの努力を重ねた。だったら正当化しても大丈夫。「こっちを選んで正解だった」と胸を張れる権利があるのではないでしょうか。だって頑張ったんでしょ? もう無理というほど突っ走ったんでしょう? 納得感を持ってはいけない理由がないじゃありませんか。
当然、D進しなかった方が良かった可能性は少なからずあります。20代の間の収入的にもそう。会社員経験の蓄積速度的にもそう。修士就職を選んでおいたら得した要素はたくさんあったでしょう。とはいえ、私はD進を選びました。幸か不幸か、学位を取って博士(工学)になってしまいました。博士号持ちの人材として生きていくよりほかに仕方がありません。D進して良かった、正解だったと思える人生を創っていくのみです。
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