沈黙の研究室

「オックスフォード大学」
その名は知の闘技場を思わせた。世界中から俊英が集い、夜を徹して議論を戦わせる。そんな活気ある場所を連想していた。しかし、私が足を踏み入れたのは、あまりに静かな戦場だった。それは、沈黙に支配された、孤独な戦いの始まりだった。
バスで30分揺られてたどり着く郊外の研究所。ラボの重い扉を開けても人の気配はなかった。教授は多忙を極め、ラボに顔を出すことはない。数少ない学生やポスドクも、在宅でできるシミュレーション研究が中心だ。誰もいない広大な居室で、私はただ一人、論文を読む日々を過ごした。窓の外には広大な原野と空港が広がるばかり。コンビニもスーパーもない。自大学の居室でもできることを、多額の費用を払ってイギリスでやる。その圧倒的な事実に、言いようのない虚しさが胸に募った。世界一贅沢な自習室、とでも言うべきか。冗談じゃない。勘弁してほしい。
肝心の研究は、一向に始められない。実験に必要な安全講習は、担当者にいくらメールを送っても「後で」という返信すらない。たらい回しにされた。1ヶ月以上も待たされた。挙句、ようやく得たのは「さらに14個の追加講習が必要」という絶望的な事実。まるでロールプレイングゲームの終わりなきお使いイベントに放り込まれたかのよう。ラスボスへたどり着く前に、こちらのライフが尽きてしまう。
実験器具は軒並み壊れていた。必要な試薬は発注さえままならない。ボスに助けを求めても、その声は虚しく宙を舞うだけ。週に一度のオンラインミーティングでは、私の存在はまるでそこにないかのよう。画面の向こうで交わされる議論に、私の声が加わることはない。月々14万円を超える在籍料を払いながら、私は何ひとつ価値を生み出せずにいた。
イギリス留学の理想は無残にも砕け散った。ここは、私が夢見た研究の聖地ではなかった。ただ時間と金と精神が浪費されていく。沈黙の研究室で、私は静かに、しかし確実に心をすり減らしていった。
不協和音の日々

日々の暮らしもまた、不協和音に満ちていた。ホームステイ先の家主の咳払いが、四六時中、家の壁を震わせる。それは私の持病のトリガーとなり、吐き気と息苦しさを引き起こした。安らぎの場であるはずの家。そこが、最も神経をすり減らす空間へと変わってしまった。
ラボでは、私のささやかな所有物が、次々と理不尽な侵略に遭う。
冷蔵庫に入れておいたチーズが、忽然と姿を消した。ホストファミリーが悪びれもなく料理に使ってしまった。ならばと、ラボの冷蔵庫に避難させたバター。厳重に名前を記し、ビニール袋で何重にも包んだ。しかし、その鉄壁の守りも、見知らぬ学部生がいとも容易く突破。バターの塊には、ナイフで無残に削り取られた痕跡だけが残されていた。ここは紳士の国ではなかったのか。私の信じてきた価値観が、音を立てて崩れていった。
行き場のない怒りの矛先は、やがて研究室を飛び回るハエに向けられた。最初は手で追い払っていた。日に日に増していくその数に、手で追い払いきれなくなった。ついに、皿を武器に立ち上がった。お酢と洗剤で罠を仕掛けた。最終的に超音波撃退機という近代兵器を導入し、制空権を取り戻した。小さな敵に勝利したところで、大きな問題は何ひとつ解決していないのだが。
時折ラボに顔を見せるチャイナ人ポスドク女性。彼女は、悪気なく私をこき使った。おまけに、実験室で触るものすべてを悪気なく壊していく。彼女の不注意でラボが水浸しになった。貴重な実験セルが破壊された。その瞬間、私の実験計画もまた、水の泡と消えた。彼女は疫病神としか思えない。怒りを通り越して笑いさえこみ上げてきた。
コメント