博士課程への進学。寝る間を惜しんで書き上げた学振DC1の申請書。そのすべては「オックスフォードで研究する」という、ただ一つの目的のため。数年間、欲しいものも、食べたかったものも我慢した。友人との交際費を切り詰め、食費を削り、ただひたすらに耐えた。そうして貯めた少なくない額のお金を握りしめ、私はイギリスへと旅立った。
夢と現実のプロローグ

渡航前夜。不測の事態を想定し、羽田空港での野宿を決行する。空港のベンチの硬い感触が、これから始まる輝かしい生活へのベッドだと思った。そう捉えれば、むしろ心地よかった。絶え間なく響くアナウンス。高揚した心は、なかなか休息を許してくれない。午前3時に目を覚まし、万全とは言えない体調でカウンターへ向かう。そこで待ち受けていたのは、1時間もの大幅な遅延だった。
当時の私にとって、予期せぬトラブルは問題ではなかった。むしろ、冒険の始まりを告げるファンファーレのように聞こえていた。ぽっかりと空いた時間で、かねてから温めていたブログ設立の理念を書き上げる。私の経験が、誰かの役に立つかもしれない。そんな高尚な思いが、心を希望で満たしていた。
乗り込んだブリティッシュ・エアウェイズの機内は、異世界への入り口そのものだった。何を言っているか分からないが、陽気な熱量だけは伝わってくる英国人キャプテンのアナウンス。これから始まる日々に夢を馳せる。機内エンターテイメントは、もちろんハリー・ポッターだ。イギリス英語のシャワーを浴びる。オックスフォードでの生活への期待値は最高潮に達していた。眼下に広がるシベリアの凍てつく大地を眺め、地図上の距離が縮まっていくのを感じる。14時間半のフライトでお尻が悲鳴を上げる。それすら特別な日々の証に思えた。
そう、この時はまだ知らなかったのだ。このフライトが、輝かしい未来へは向かっていないことを。トラブルと虚しさが渦巻く現実への片道切符だったとは。待ち焦がれた英国生活が、私のささやかなプライドと希望を、音を立ててへし折っていく。ヒースロー空港着陸が地獄の始まりだったとは思いもしない。
これは、世界最高峰の学府で過ごした、一人の日本人大学院生の挫折と再生の記録である。
トラブル続きの幕開け

オックスフォードは、歓迎の代わりに次々とトラブルを私に突きつけた。ヒースロー空港からオックスフォードへ向かうバス。運転手の眉間には深い皺が刻まれていた。心底面倒くさそうに吐き捨てられた「This is not your buuuussssss!!!!!」という怒声。この出来事は、ほんの序の口に過ぎなかった。
ようやくたどり着いたオックスフォードの街は、冷たい大雨に見舞われていた。歴史ある石畳を濡らす雨音が、私の多難な未来を暗示しているかのよう。予約したゲストハウスは湿っぽい空気で満ちていた。割り当てられた部屋の鍵は閉まらない。巨大な蜘蛛が主のように天井の隅へ鎮座している。一泊一万円。このクモ付き物件の値段が、イギリスの洗礼の厳しさを物語っていた。
生命線であるはずのスマホ。Amazonで買ったSIMカードが二度も立て続けに機能しなくなった。ネットの繋がらない暗闇の中、何度も道に迷っては引き返し、右往左往する。土地勘のない異国の地で、文明の利器がただの文鎮と化す恐怖。大学のWi-Fi「eduroam」が繋がる範囲でかろうじて生き延びる。一歩離れれば、そこは情報の孤島。
生活費カットに向けて自炊を試みる。ダメだった。スーパー「TESCO」で衝撃的な物価の高さが待ち受けていた。わずかな品々で8ポンド、日本円にして1400円を超える。日本より安いのはパンと水だけ。購入した水さえも、間違えて炭酸水を買ってしまった。
極めつけは、食器の調達漏れ。夕食のラザニアを食べるためのスプーンを買い忘れた。段ボールで自作のスプーンを拵えて食事をする羽目に。しかも、ゲストハウスの電子レンジは壊れている。加熱用のラザニアをキンキンに冷えたまま、段ボールのざらついた舌触りと苦みをスパイス代わりに流し込む。オックスフォード広しといえども、これほど惨めな食事をした学生はそう多くはない。これで私も、サバイバル能力だけは博士レベルに達したかもしれないと冷笑した。
もちろん、絶望ばかりではない。翌朝、カーテンを開ければ、朝日を浴びて輝く、まるでおとぎ話のようなレンガ造りの街並みが広がっていた。ハリー・ポッターのロケ地にもなったクライスト・チャーチ・カレッジが通学路にある。圧倒的な美しさは、一瞬、私の心を浮き立たせた。美しい風景とは裏腹に、心は孤独と虚しさで急速に蝕まれていった。トラブル続きの毎日。輝かしいはずだった留学生活は、どんどん絶望の淵に落ち込んでいく。

コメント