ブラックペッパービューティー
マルクスとレーニンとゴルバチョフと私で四人八脚を組み(バラバラやないかい)、数十年もの検討のすえ、このたび栄光の12連休を掴み取った。カレンダーを彩る二週間が訪れ、気分は否応なしに沸き立ってきた。
こんなに続けて休むのは久々である。就職直前の春休み以来だろうか。あの頃は、休みなんか要らない、さっさと働かせろ、同情するならカネをくれ、いやカネなんか要らんから彼女をくれと息巻いていた。博士課程を最高速度で駆け抜けてきて、長期休暇でモメンタムを殺されるのに耐えられなかった。
最初の一年で会社にウンザリし、勤労意欲が地の果てまで堕ちた。今や、一日でも多く休みを欲する体質になった。会議の、会議による、会議のための会議を終え、ようやくGWがやってきた。家でゴマフアザラシの真似をしてゴロゴロ過ごすのはもったいないと思い、今までやったことのない何かをする期間にしようと決めた。
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春はあけぼの。やうやう怪しくなりゆく生え際、すこし光りて、紫だちたる皮脂の、細くつたひ落つるこそ、あはれなれ。清少納言もすなるという散髪を、吾輩もしてみむとてすなり。
これまで散髪は床屋さんでしてもらっていた。もちろん寝技じゃない方の床屋で(なに言ってんの?)、育毛でもない、植毛でもない、一回1,600円のお手頃価格で施術していただいていた。高校時代まで通っていた散髪屋さんなので、思い入れは、富士山頂でのポテトチップス袋ぐらい膨大にある。小学生のときは、散髪のたび、おっちゃんからチュッパチャップスを貰っていた。高二の国体にて、団体戦で自分のミスでメダルを逃し、責任を取って頭を丸める際にもお世話になった。
行きつけの散髪屋さんには、唯一にして致命的な問題がある。毎度同じオーダーをしているにもかかわらず、毎回仕上がりがバラついてしまう。長く通っていれば完成度は正規分布に落ち着いてくるかと思いきや、いつも軽々と3σをぶち抜いてきて、我が統計データを台無しにしてくる。髪型はパイナップル状になることもあれば、扇やシイタケのようになることも。ラーメン二郎のスープと同じぐらい、日ごとにバラバラのヘアスタイルになる。理容師さんは高齢化が著しく、髪を切る手もブルブル震えている。耳を切られずに済んだだけマシだと思っている。
ネコチャンは春と秋に衣替えする。もふもふ毛布で寒さをしのいだら、タンクトップでカルピス片手にお姉さんとの盛夏を味わう。あのネコチャンですらイメチェンするのだから、米国大統領の知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの、たぶん知り合いじゃない方の私もネコチャンして構わないだろう。
そうだ、せっかくだし、髪型を変えてみるか。キャリアには一貫性が求められるけれども、ヘアスタイルは自由にいじってもいいだろう。さすがにネコチャンのように全身脱毛は難しいから、ヘアスタイルの調整に留めておこうか。いや、いっそ出家でもしてみるか。いや~、まだ早い。欲を捨てるには、やり残したことが多いんだな、これが。出家しても3秒で還俗すると思う。剃り落とした髪を両面テープで貼り直してでもお寺を離れる自信がある。
このまま同じお店に通い続けてもいい。髪型には特段のこだわりはなく、もし施術が大失敗しても最悪は坊主にすればいいと思っている。だが、同じ店に通い続けるのもなんだか興ざめに感じる。これだと、散髪がただの恒例行事になる。ルーティンはマエケンダンスだけで良いと思う。人には人の、乳酸菌。そろそろ違う店に行ってみるか。
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さて、どんなヘアスタイルにするかな。全剃り以外なら何でもいいぞと、AIへ顔写真を投げつけ、リプライを待つ。
ChatGPTはモヒカンがいいと言ってきた。遊び人のかめさんならきっと似合いますよと。普段私と接していて、いったいどこに遊び人要素を感じたのか。Geminiはそのままでいいんですよと諭してきた。マジで全肯定ハンパないって。あのね、僕はね、変わりたいの。
どいつもコイツも話にならない。Claudeよ、君だけは信じているぞ。君こそが人類最後の砦なのだ。アンソロピック社が上場したら必ず買うから、頼むぞ、Claude。
Claudeに相談してみると、短髪にワックスの合わせ技を提案してきた。ワ ッ ク ス。硬い髪質の人は、いっそ髪をツンツンに尖らせた方が似合うらしい。鋭きことサボテンのごとく、その切れ味は宮本武蔵のごとし。
かめでもさ、自分、大学生のとき付き合ってた彼女から「ウニ」ってあだ名をつけられたんだよね



ウニはウニらしく生きればいい
中途半端なのが一番良くない
確かにな、振り切った方がいいか。
どこで散髪するかも相談してみたところ、「アプリで探すのがオススメですよ」ときた。いやいや、もうアプリはやめたんだって。WithもPairsも全然マッチングしなかったもん。「マッチングアプリじゃないです、ホットペッパービューティーです」と被せてきた。なんじゃそりゃ、イタリア料理の最終進化版みたいな名前は。ペッパーといったらブラックペッパーでしょ。次点でホワイトペッパーだし、カレーにはカイエンペッパーが欠かせない。ほっとぺっぱー、びゅーてぃー…?
調べてみると、そういうアプリがあるらしい。お店とプランと時間を選択すれば、当日お店に行くと髪を切ってもらえるとのこと。あ~、そういえば昔、水曜日のダウンタウンのCMで聞いたことがあるような、ないような、ないような… どっかで聞いたことはあるんだけどな。まぁ、いいか。とりあえず使ってみるか。
ブラックペッパービューティーを開くと、サイトのテーマカラーがピンクだった。絶苦死胃のトラウマが蘇り、卒倒しそうになるのを耐え、七転び八起きの精神で立ち上がった。おい、なんでよりにもよってピンクなんだよ。男も使うんだぞ、絶苦死胃嫌いの人にも配慮してくれってんだ。ピンクとか、ホンマに無理なんだって。
画面を白黒モードに変更し、感情を押し殺して選んでいく。近所に評判の良さそうなお店が一軒あり、お店選びは2分で終わった。そもそも散髪に予約という概念がなかった私は、コロンブスの尻に敷かれた卵みたいな顔になった。
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4月最終日、カイエンペッパービューティーで予約したお店へ歩いて向かった。平日&雨だからか店内は空いていて、入るとすぐ「かめさんですね~、ようこそ^ ^」と挨拶された。お店の中には洋楽が流れていた。リズムに合わせてついついハトのように首を振ってしまった。行きつけの床屋には演歌が流れていたから、雰囲気からして全然違う。
椅子に座るとオーダーを聞かれ、「面舵一杯で」とお願いした。「取り舵一杯ですね、承知しました」と、後ろで華麗に東郷ターンを決め、霧吹きをお持ちになった。それからカットやら、バリカンやらで、髪の毛が少しずつ短くなっていく。床屋みたく、いきなりバッサバッサ切らないんだな。ほふく前進のようにじっくりと・着実にフィニッシュまでの距離を縮めていく。髪を触る手つきがあまりに柔らかくて、ついウトウトしてしまった。
髪を切ってもらい、さぁ、出るかと立ち上がりかけると、「シャンプーしましょうか。椅子を倒しますよ」となった。シ ャ ン プ ー。シャンプーなんてしたら、髪を洗わなくてよくなるじゃないか。えっ、ホンマに洗ってくれるんですか。ホンマに? タワシでこすられながら掃除機で吸われるんじゃなくて? 仰向けに倒され、三種類の薬剤を噴霧され、起き上がるとドライヤーまでかけていただいた。
さすがにコレで終わりかなと腰を上げかけたところ、「せっかくだし、セットしてみましょうか」と、理容師さんが缶から液状の化学薬品を拭い取った。何すかそれ、と尋ねてみると、「ワックスです」と返ってきた。ワックスって、アレか、床をピカピカにするヤツか。とうとう私も床になってしまったのか。理容師さんはワックスを髪全体へシャーっと馴染ませ、ネコチャンの毛づくろいの要領で整えていく。すごい、自分が自分ではなくなっていく。自分ってこんな明るい顔をしていたんだ。シャンプー中にジャムおじさんから「新しい顔だよっ!」と顔を入れ替えられたのかと思った。
聞くと、今回の散髪は、ワックスでスタイリングする前提で切ったのだそう。つまり、私はこれからしばらくの間、ワックスで髪の毛を整えねばならない。ワックスを見たのも初めての私が、今日からワックスを使いこなせるわけがない。いきなり一人でセットするのは難しく、理容師さんにセットのポイントを尋ねた。深く考えずにチャレンジしてみたらいいとのこと。考えたら負けなのか、会社勤めと瓜二つだな。
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雨は小降りになっていた。傘を差しながら歩いていると、ふわっとワックスの香りが鼻を抜けた。柑橘でもなく、石鹸でもなく、なにかもっと、こう、かつての自分とは無縁だった新世界の匂いがする。爽やかというのはこういうことなのか。清潔感って、お金で買えるのか。松坂桃李、ここにあり。侍戦隊シンケンジャー。
翌朝、ランニング後にシャワーを浴び、鏡の前に立って髪をセットしてみた。深く考えない、深く考えない、深く考えてはいけないんだぞ。深く考えるなと言われたのだから、深く考えてはいけないということを深く考えるのもいけない。まして、深く考えてはいけないということを深く考えないということを深く考えるのもいけない。
心を無にしてワックスを手に取る。昨日の理容師さんの所作を脳内再生しながら、髪にじっくりコトコト揉み込んでいく。鏡の中にいたのは、爆発事故から命からがら逃げてきた若き研究者だった。深く考えなかった結果、深く考えるべきだったと深く考え、肩を深く落とした。深く考えなかったことを深く反省し、もう一度深く考えずにやり直したら、さらに事態は悪化した。
ああ、もうダメだ。

















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