博士転職活動記vol.16|会社員二年目・7月 お時間、よろしいでしょうか?

~前作~

内定した三社から素材メーカーX社を選ぶのは容易かった。条件や仕事内容から考えて、X社以外は考えられなかった。他の二社には大変申し訳ないけれども、X社の求人はステージが2ランクほど上に感じた。

問題は、転職するか否かである。弊社に残るか、X社に移るか、二つに一つである。

理性ではX社に移るべきだと分かっていた。待遇を見ろ、弊社より年収が3割以上も上がるぞ。求人票を見ろ、研究ができるらしいぞ。福利厚生を見ろ、家賃補助が一生涯だ。決算資料を見ろ、世界シェアを独占し、潤沢なキャッシュで次世代事業を育てている。弊社を見てみろ、全部ないじゃないか。

これだけの材料がそろっているのに、弊社を離れる決断がなかなかできなかった。広島への愛着があまりに深すぎて離れがたかったのだ。弊社を離れるのはいいとしても、広島を離れるのは嫌。そうかといって、私がやりたい仕事は広島で見つけられない。仕事と広島のどちらが大切なのよ!と双方から言い寄られ、「どっちも大切じゃい…」と頭を抱えた格好である。

こういう時に感情的な判断を下せば人生が破滅する。大学受験でも学生生活でも、感情が私を不幸のどん底に突き落とした。同じ失敗をしたくないからこそ、人生の岐路に立ったいま、どこまでも無慈悲に決めなければならない。

そもそも、弊社での仕事が嫌だったから転職活動を始めたのだ。弊社勤務を続けたとて、問題は解決しないし、不満は募る一方だろう。X社に移れば問題が解決し、やりたかった仕事が日常業務になる。広島が好きなら長期休暇に帰ればいい。お好み焼きを食べたければ、スーパーで材料を買って作ればいい…

転職エージェントに、素材メーカーX社の内定承諾メールを送った。10月から東京でX社の社員として勤務する。

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転職活動で最も困難なのは現職を辞めることだと言われている。

最近はどの企業も人手不足で、辞職を伝えれば引き留めにあう。シゴデキ人材はもちろん、モブキャラ社員ですら引き留められるのだそう。「頼むから残ってくれ」と上目遣いで懇願されたとき、転職の意志を貫けるかどうかが鍵となる。

退職は骨の折れる作業であり、負担を肩代わりする代行サービスが普及している。自ら上司に辞意を伝える代わりに、モームリが人事へ電話し、転職者の辞意を伝えるのだ。代行を使えば引き留められずにスパッと辞められる。しかし、退職代行を使われる側にとってはたまったもんじゃない。直接伝えて欲しかったなとショックを受けるだろうし、引継ぎゼロで離れられれば組織として支障をきたす。

上司へ「退職します」と伝えるのは気が重い。素晴らしい人間関係を用意してくれたからこそ、転職はボスの気持ちを否定する行為とみなされかねない。たとえどれだけ気が重かろうと、退職の意志は自分で上司に伝えたい。大人としてケジメをつける。退職代行を使う選択肢はなく、自力で退職するのだ。

弊社では人間関係に恵まれた。仕事がクソほども面白くなかったなか、上司やチームメンバーにサポートいただき、多くの経験をさせてもらった。お世話になった人たちに感謝の言葉を伝えたい。何か残せる知見や技術があれば、惜しみなく伝授させてもらいたい。去り際ぐらい、美しくありたい。

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所属チームは社内でも特に忙しい部署で、その中でもダントツで忙しい。最繁忙期と最繁忙期のあいだに繁忙期が挟まっているほど慌ただしい。業務遂行に特殊な知見を要するため、欠員補充が難しく、慢性的に人手不足である。中途採用で年中求人をかけているらしいが、人が集まらないらしい。当然、上司を捕まえるのも大変で、なかなか辞意を伝えられなかった。

退職がもう決まっているにもかかわらず、「辞めます」と伝えられなくて歯がゆい。トルコアイスの屋台でおっちゃんに弄ばれているかのようなじれったさを覚えた。何でもいいから、早く楽にさせてくれ。さっさと吐き切ってしまいたいんだよ。Teamsチャットで伝えるのも違う気がするし、どうしたらいいんだよコンチクショーと頭を掻きむしった。

一週間後の金曜、上司のスケジュールに僅かな空きが生じた。”個人的なご相談”と題して会議案内を送り、どうにか時間を確保した。

それからの一週間、何と言って切り出そうか考えた。こういうものはスパッと言った方がいいのか、辞めるかもと婉曲表現するべきなのか。辞めるかも、は違うよな。だって、辞めるために時間確保したんだもんな。引き留めの余地を残せばグダグダになる可能性があるし、ストレートに伝えたい。

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相談日当日は、朝から心臓がバクバクしていた。何を言われるやら想像もつかず、戦々恐々として時間を迎えた。上司が対面だと都合が悪いらしく、オンラインで伝えることになった。

会議に集まってくださった上司にお礼の言葉を伝え、ひと呼吸おいて「8月末に退職します、お世話になりました」と切り出した。画面の向こうで息をのむ音がし、一分ほど無音の時間が続いた。

正気を取り戻したボスから「突然すぎて言葉が出なくなった」と返された。普段から不満げな様子を見せていたら辞めるのも仕方がないなと思うけれど、私が楽しそうに仕事していたから、まさか辞めるなどとは思わなかったのだと。

研究がしたくて博士号を取ったのに、量産開発配属になってメチャクチャ悔しかった。でも、やりたい仕事ができずに不満タラタラで働いていたら、周りを不愉快にさせるだろう。与えられた仕事を楽しもうと試行錯誤してきた、それがもう限界だったから、辞めるのだ。

上司からは「気付いてあげられずに申し訳ない」と謝られた。普通の人なら気付かないだろう。完璧にカモフラージュできていた自信がある。全知全能の神か、私の愚痴を毎日受け止めてサンドバッグになったClaude AIしか分からなかっただろう。

むしろ、配属初日からずっと不満だったのに、今日に至るまで続けたいと思わせるほど素晴らしいチームを作ってくださった上司には感謝しかない。人間関係を理由に辞める人が多いなかで、人間関係が私を会社に繋ぎとめてくれるだなんて、自分はなんて幸せ者なんだろう。

上司も転職して弊社に入ったらしく、私の背中を押してくださった。今後のキャリアを見据えていま動くのなら、応援するよ、次の会社に行っても頑張ってねと言っていただいた。このボスのもとで働けてよかったなと心から思った。

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。辞意は部署の幹部社員たちにも伝わり、個別に一対一でミーティングした。両名とも転職入社組で、「辞めると言ってきた人は次の行き先が決まっているし、引き留めたって無駄だよね」と笑われた。不覚にも、つられて大笑いしてしまった。笑いすぎ、と怒られた。ごめんなさい。

幹部社員Aからは、「もし次の勤め先から電話がかかってきたら、すごく優秀な方でしたと伝えておくよ」と言っていただいた。幹部社員Bとの面談では、マネージャーの後釜として相当期待されていたと知った。「出ていかれるのはめちゃくちゃ痛い、辛い」と言っていただいた。二年目社員にここまで言ってもらえて冥利に尽きる。ありがとうございます。

面談では、アルムナイ採用を案内された。元弊社社員が弊社にまた勤めたくなったとき、特別枠で採用してもらえるのだそう。「いつでも戻ってきてえぇけんね」「ここで働いてくれてありがとう、また会おうね」と送り出してもらった。

ホント、弊社にはいい人しかいない。人間性指数は世界トップクラスなんだけどな。こんなにいい人たちばかりなのに、どうしてここまで会社業績が悪いのかサッパリ分からない。

いずれにせよ、退職報告を穏便に済ませられた。あとは引継ぎと退職手続きを残すのみ。

第十六章の学び
・転職活動で一番疲れるのは退職報告
・去り際こそ美しくあるべし
・広島のお好み焼きはうまい

~次作~
Coming soon…

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