原状回復義務

SHUCDECの唐揚げ社宅からは広島湾を一望できた。ベランダから花火大会を見れたし、宮島も見放題だった。海だけではなく山にも囲まれていて、季節ごとに色が変わる己斐の稜線には特に癒された。
SHUCDECの唐揚げ社宅制度を使って、広島有数の超高層タワマンに月1.5万円で住ませてもらっていた。弊社は太っ腹にもほどがある。果たして何段腹なのか、角界入りでも目指しているのか。毎日何杯ちゃんこ鍋を食っているのか。弊社に負けじと四股を踏んだところ、あえなく右足首靭帯を痛めた。
8/6に最終出社を済ませ、タワマンで2ヶ月間もの夏休みを謳歌した。オーシャンビューの絶景を眺めながら、ニッカウィスキー片手にぼーっと過ごした。広島で過ごした日々は思惑通りにはいかなかったけれど、もどかしさを糧に二社目で飛躍できればと願った。
それにしても、ウィスキーが美味すぎる。退職後に呑む酒はなんと染みることか。アルコールが脳を殴っては愛撫し、また殴っては愛撫してくる。まるでDV彼氏みたいではないか。あぁ、気持ちがよくて眠ってしまいそう。酒が酒を呼び、快感は加速の一途をたどる。この世をば、我が世とぞ思う望月の、欠けたることも無しと思へば。
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10月から東京勤務になる。東京で働くということは、東京で働くということなので、東京に引っ越す必要がある。
最近は引越しにも多様性がある。部屋ごと持って行くタイプを中心に、いっそ開き直って子供部屋おじさんになるお子さまプランや、住民票を勤務先工場に移して会社で寝泊まりするウルトラ社畜プランも開発された。引越し業者のホームページを見ると、部屋ごと持って行く人が大多数なのだとか。やっぱりか。
10月に転職するX社から、引越し業者の案内が届いた。今回はサカイ引越センターのお世話になる。サカイはパンダが引越しを手伝ってくれる。住民票の手配はもちろん、国民年金や国保の加入手続き、蛇口備え付けウォーターサーバーのサブスクまで、何から何まで代行してくれない。目の下に くま を作りながら、オープンハウスに負けじと「まだまだコッカラっすよ」と血気盛んに駆けずり回っている。
引越しするにあたって、どう引越すか考えた。実家のある広島から離れて東京で働くわけなので、お子さまプランは難しい。となると、子供部屋お兄さんか、部屋ごと持って行くかの二択である。まだ28歳なのでアラサーだし、ギリギリお兄さんと言えなくもない。まだおじさんじゃないよね、ね? 大丈夫だよね?
念には念を入れ、ヘソに力を入れ腰も落としつつ、唐揚げ社宅の規約を確認した。あちゃ~、部屋は置いていって下さいと書いてある。なんでだよ。部屋ぐらい、いいだろう。ちょっとは融通を利かせてくれよ。吝嗇にもほどがある。弊社に角界入りなんか絶対無理だわ。
となると、残るは子供部屋お兄さんプランである。やっぱ家賃は浮いた方が嬉しいですからね。実家に帰って、家を東京に移すよう伝えたところ、両親から「ふざけんな」と返された。真面目に言っているのだと伝えたのに、「出ていけクソガキ」と突き返された。マジかぁ~、じゃあどうしたらいいんだよ。
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サカイに再度相談したところ、荷物を持って行けばいいんじゃないですかと提案された。そうか、その手があったか。
…いや、ちょっと待ってくださいって。サカイさん、熱力学第二法則ってご存知ですか? エントロピーはね、増大するんですよ。せっかく部屋中に荷物を展開してエントロピーを増やしたのに、なぜ荷物をまとめてエントロピーを収束させねばならぬのですか。自然の摂理に背いたらね、必ず痛い目に遭いますよ。口の中にちっちゃい口内炎ができて、食べるとき痛くなるんですから。
サカイさんは「そうっすよねぇ…」と熟慮し、でも仕方がないっすよと返してきた。私も仕方がないと思う。唐揚げ社宅でヤドカリになっていた以上、部屋から出ていくのも道理である。理(ことわり)対決は、信念の強い方が勝つ。今こそ、北大で鍛え抜いた武士道の見せどころである。熱力学なんかちっとも分かんねぇよ、B–だったし。
博士号の力でエントロピーをねじ伏せ、第二法則を克服した。博士論文執筆でお世話になった指導教員の顔がよぎったが、そんなの知るかと本や衣類を段ボールにまとめ、封をした。あまりの荷物量に猫の手も借りたく、宮島からシカを一頭連れてきて、手伝わせた。そこらじゅうに糞をして部屋を汚し、ちっとも手伝ってくれなかった。どころか、「せんべいをよこせ」と鼻でフガフガしてきて、集中力がフリーフォールとなった。
結局、二日かけて家じゅうの荷物を整理した。
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サカイさんに荷物を搬出していただき、フローリングを雑巾がけした。ネコチャン、カワイイデチュネェとつぶやきながら、不審者に間違われぬよう常識人のフリをして磨き上げた。東京ではネコでも飼ってみようか。名前は、そうだなぁ、ネコでどうだろうか。ネコのネコにお前の名前はネコでいいか相談してみよう。もうちょっとひねってくれと言われるかな。
カーペットを敷いて暮らしていたおかげか、床は新居も同然である。あと数時間後に別のサカイさんが入居者の荷物を持ってきても大丈夫なのではないか。仮暮らしのスパゲッティーみたいに丁寧な生活をしていてよかった。真面目に生きてきて正解だった。原状回復義務を果たせて嬉しく思う。
ラップトップ一台だけの自室には、タイピング音がよく響いた。広島生活の残響に耳を傾けながら、故郷での残りわずかな時間をどう過ごそうか考えた。
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