広島生活春夏秋冬vol.23 二年目・9月|散髪蹴球とミナモア欲求階層構造の理解に基づく英蘭西国限界旅行

目次

サンフレッチェ

博士課程を一年短縮修了しようと考えたのも、広島にUターン就職しようと決めたのも、サッカースタジアムでサンフレッチェの応援をしたかったから。広島のど真ん中にできたスタジアムのサポーターズシートからチームの背中を押したかったのだ。

〇 〇 〇

2020年から始まったコロナ騒動では、マスクやロックダウンにワクチン半強制と、異常な出来事が数多く起こった。人との関わりが失われ、こんなことがあと何年続くのかと悲痛な気持ちでいっぱいになった。

2020年4月に研究室配属された。バリバリ研究をやってやるぞと意気込んでいたところ、コロナにかかったらいけないから研究室に来るなと言われ、自宅待機となった。来る日も来る日も論文を読む毎日で、ちっとも面白くなかった。

指導教員に実験をさせてくれと懇願してOKをいただいたが、肝心の実験も手先の器用さが求められるもので、不器用極まりない私には不向きだった。二度目の懇願のすえ、テーマを変えていただいた。その課題があまりに面白くて、気付いたら博士課程にまで進んでいた。

本当は修士課程で海外留学しようと考えていた。だが、渡航にはmRNAワクチンの接種が求められるらしく、打つのが怖くて渡航を諦めた。博士課程に進んだあたりで渡航要件が緩和され、ワクチン非接種でも渡航できる地域が現れたので留学した。渡航したオックスフォードの研究室では、研究者がいなかったり、研究設備がむちゃくちゃに壊れていたりと散々な有様だった。半年間の滞在予定を2カ月半切り上げて帰ってきた。無念だった。

コロナに振り回された研究室生活において、サンフレッチェが心の支えだった。地元チームの選手らが頑張っている様子を見て、オレも頑張らなきゃなと奮起できたのだ。何もできずに腐りかけても「今のままではいけないよな、だからこそ、今のままではいけないよな」と内省して踏ん張れた。

D1でやった就活の際、私を支えてくれたサンフレッチェのすぐそばで働きたいと考えた。一時はサンフレッチェ広島FCへの就職も考えていたほどである。別にサッカー経験者でもないし、化学系博士課程まで行ってエンタメ関係の仕事に就くのもアレだしなというわけで、地元のぽんぽこりん企業・弊社に応募した。

弊社は弊社で、留学時代以上に苦戦した。事業環境の変化に伴い経費がカットされ、日常業務に支障をきたすほど研究開発費が削減された。実験資材の調達はおろか、装置修繕費も論文購読料も消滅した。机上検討しかできなかった。メーカーに入ってパワポやエクセルを作っていて、「オレは果たして何をやっているのか」と首をかしげていた。

弊社で陰鬱な気持ちになっても、週末、スタジアムに行けば気が楽になった。サンフレッチェの観戦で大声を出したりジャンプしたりして気分転換できたのだ。勝てば選手と一緒に喜び、負けたら次は頑張れよ(←お前もな)と檄を飛ばした。選手を応援しているようで、自分自身を応援していたのかもしれない。いずれにせよ、サンフレッチェのおかげで会社員生活もギリギリのところで踏ん張れた。

・・・・・・・

試合のハーフタイムで周りが静かになったとき、よく、これからの人生について考えていた。広島で暮らし、ずっと弊社で働きながら歳を重ねる未来を想像していたのだ。

弊社を取り巻く事業環境の変化は一時的なモノではなく、これからどんどん厳しくなる。やりたい仕事があっても「開発費がないから」と諦め、野心的な先行開発プロジェクトを提案しても「ウチには無理だから」と突き返される。

こんな環境で忍耐に忍耐を重ねて忍者になって、運よく弊社がつぶれず定年を迎えられたとして、手元に何が残るのか。サンフレッチェを応援し続けた記憶? 眉間に力を入れすぎて谷になったシワ? 自分は何も成し遂げられなかったという無力感?

サンフレッチェの応援がしたくて、広島を本拠地とする弊社に入った。弊社で何かを成し遂げたいわけではなく、サンフレッチェを応援できる状態をフィニッシュと位置付けて就活した。会社でやりたいことベースで仕事選びしなきゃいけなかったのに、会社の”外”での生活ばかり考えていた。弊社の内情をよく知らずに入社し、案の定、大変な目に遭った。自分を救ってくれた存在が、選択を誤る一因になった。

成功は茨の道である。試練や忍従の果てに栄光が待っていると、これまでの経験から学んできた。しかし、苦労が目的化するのもダメである。何か目指すものがあって、その過程で苦労するならまだしも、無目的に際限なく苦労したところで何ら得るものがない。そうかといって、弊社の中でやりたい仕事が見つかる気はしない。何を提案しても開発資源の問題で渋られていては、バイタリティーが枯れるだろう。

改めて記すが、広島では仕事もプライベートもズタズタだった。環境を変えなきゃどうにもならないと思い、転職した。転職活動では、仕事でやりたいことベースで求職活動した。電池を素材の観点からより良くしたいという想いのもと、勤務地度外視で企業探しした。三社から内定をいただき、東京の企業に就職する。来月からは広島圏外で過ごすことになる。

・・・・・・・

履歴書上は博士課程を一年飛び級して修了している。ただ、精神面では飛び級などできていなかった気がする。どう生きていくか深く考えもせず、サンフレッチェを応援したい一心で大学院を飛び出してきたのだから。その罰として、神さまが過酷な弊社勤務を通して「もっとよく考えろ」と内省を迫ってきた。自業自得である。

やりたいように仕事できない辛さとか、同時期に研究室を離れた3歳下の修士卒より安い給料で働いていたこととか、とにかくもう色々情けなかった。胃を壊して食欲不振になり、体重が5キロ落ちた。無知に伴うツケは重いと、嫌になるほど感じさせられた。しんどくなるたびになぜ辛いか考え、転職活動の軸がおのずと固まった。

私にとって一年半の弊社勤務期間は、博士課程・第二ラウンドだった。業務経験を積めた以上に、博士課程で考え残した『これからどう生きていくか』を突き詰めて考える時間でもあった。検討に次ぐ検討のすえ、ようやく答えを出せた。どの方向へどれだけ力を注いで生きていくべきかがハッキリと見えた。これから多少は変わるかもしれないが、大筋は不変だと思う。

ラボでの二年間プラス弊社一年半で、合計三年半もの博士課程を修了した。早期修了どころか半年間ものオーバードクターである。昔からどんだけ要領が悪いのだろう。焦らず着実に進めばいいものを、つい駆け足で突っ走って転んで痛い目に遭って、他の人より遅くフィニッシュテープを切る。もう少しね、あなたはアタマを使って生きた方がいいですよ。

サンフレッチェに導かれて帰ってきた広島で、博士課程を決着させられた。と同時に、学校や家でいじめられて傷ついた記憶を手放すこともできた。実家や当時通っていた学校を見ても、もう何も感じなくなった。広島で置き去りにされていた18歳の自分を、10年ごしに助けてあげられた。広島に帰ってきて、実は正解だったのかもしれない。

知らんけど。

1 2 3 4 5

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

カテゴリー

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次