10/2 (月) その3:いざ、オックスフォードへ!
入国審査と預入荷物の回収


飛行機を降り、動線に従い入国手続きへと向かう。入国審査も超簡単。機械にパスポートを置いてカメラを見つめるだけで構わなかった。小学生の頃、入国審査場で揉めている人のやり取りをテレビで見た経験が。今じゃそんなの考えられない。人ではなくて機械が入国を審飛行機の扉が開くと、湿った空気が頬を生ぬるく包んだ。ロンドンの雨は、霧と風を混ぜた匂いがする。十数時間の乾いた機内を出た途端、肺の奥に水が染み渡る感覚があった。
入国審査は思いのほか簡単だった。機械の前に立ち、パスポートを読み取り台に置く。カメラのレンズがこちらを見つめ、シャッター音が響いた瞬間、「Welcome」の文字が浮かび、扉が開いた。人間の判断を通らず、コンピューターの眼が「入国」を許す。国境とはもはや線ではなく、制度塗装上の概念なのだ。査するようになっちゃったから。

荷物受け取りの案内標識に従ってエスカレーターを降りる。ターミナルの中を地下鉄で移動しなければならないという事実に驚いた。都市機能が丸ごと空港に詰め込まれている。壁の白光、無限に続く通路、無言で流れる人の列。羽田の広さに感心していた自分が、今はやや滑稽にも思える。

ターンテーブルの前でスーツケースの影を探した。ベルトの上を流れる数百個の荷物の中から、自分のものを見つけた。ロストバゲージの恐怖が杞憂に終わり、旅の第一関門を無事に通過した安堵で頬が緩んだ。

出口を抜けると、あたり一面が英語の世界。看板、広告、アナウンス、すべてが翻訳を求めてくる。言葉を聞き取ろうと耳を澄ませるうちに、自然と背筋が伸びた。私は英語を学びに来たのではない。英語で生きに来たのである。翻訳アプリなど不要だ。自分の口で、手で、頭で、この地を歩いていくのだ。
バスはどこ?えっ、コレじゃない…?!

バスの案内を探すが、見つからない。第二ターミナルへ行くには、また地下鉄に乗る必要があると知る。無料の乗車券を手に取り、階段を下りた。紫


を基調にした車両がホームに滑り込み、ドアが開く。光沢のある外装、静かな走行音。日本の電車とはまるで別物だった。一駅分の移動で、旅の現実感がまた一段階深まる。


時計を見ると十七時四十五分。オックスフォード行きのバスは十八時発。残り十五分。焦りが襲った。乗り遅れるわけにはいかない。走るしかない。十九キロのスーツケースを引きずり、息を切らしながら空港の構内を駆けた。足音が後ろで床に跳ね、英語のアナウンスが背後に遠ざかっていく。
十五番ゲートにたどり着き、息を吐いた瞬間、運転手が手を振って怒鳴った。
「No! This is not your bus! Take another one!」
間違えた。似た時刻にもう一本あるとは思わなかった。全力で謝り、チケットを握ったまま再び走る。九番ゲートに停まっていたもう一台のバスに飛び乗った。席についたとき、心臓がまだ暴れていた。どうにか間に合った。

車内は暖かく、革張りの座席が体を包み込む。BA08便よりもはるかに快適だ。けれども油断はできない。このバス路線の終点はオックスフォードではない。もし眠り込めば、知らぬ町まで連れて行かれる。口の中で「寝るな」と何度もつぶやく。隣の中国人が不思議そうな顔でこちらを見た。笑ってごまかす。
外はすっかり暗くなり、車窓を伝う雨が街灯を歪ませている。ロンドンの郊外を抜けると、道路は次第に狭く、街の灯もまばらになっていく。舗装の継ぎ目を越えるたびに、バスの車体がかすかに震えた。そのリズムが眠気を誘う。瞼が落ちかけるたびに歯を噛みしめた。
市内のホテルにチェックイン

十九時半、オックスフォードに着いた。雨脚が強まり、街全体が薄い霧に包まれている。街灯の下を歩く人影が傘の輪郭だけを残して消えていく。まさしく、イギリスという名の印象画だった。
ホテルまでは歩いていくつもりだったが、雨と方角のせいで早々に諦めた。二階建ての市バスに乗り、数駅先のレイク・ストリートで下車する。クレジットカードをかざすだけで支払いが済む。現金を使わずに生きられる世界がそこにあった。

バス停を降り、地図を頼りに建物を探すが、見つからない。番地の横に「59f」とあるのを見て、玄関をノックした。扉の向こうから中年の管理人が顔を出す。
「Welcome. You must be the Japanese student.」
予約した“ホテル”は実際には小さなゲストハウスだったが、構わない。六日間の仮住まいで十分だ。
スーツケースを壁際に置き、窓を開ける。外の空気は冷たく、石畳の匂いがした。遠くで教会の鐘が鳴る。その音を聞いた瞬間、半年間の物語が幕を開けたことを悟った。

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