【英国留学体験記】週刊オックスフォード総集編|希望で胸を膨らませた北大博士留学生が夢破れて帰国するまでの一部始終

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束の間の安らぎ

息詰まるような日々にも、僅かな楽しみはあった。

スウェーデンで開催された国際学会。世界中から集まった研究者たちと英語で議論を交わす。早口で飛び交う専門用語のシャワー。純粋な知的好奇心が刺激された。オックスフォードで錆びついていた思考が、再び勢いよく回転を始めた。何より、北大の指導教員や仲間たちと日本語で囲む食卓は、乾ききった心に染み渡るよう。スウェーデン料理の鮭の濃厚な味わいと共に、人の温かさを思い出した。

予期せぬ欠航から生まれたロンドン観光も格別だった。テムズ川のほとりに立つビッグ・ベン。荘厳なウェストミンスター寺院。歴史と現代が共存する街並みは、ただ歩いているだけで心を躍らせた。大英博物館で日本の展示品を目にしたとき、自分が日本人であることを強く意識した。質素で飾り気のない、無の内に美を見出す文化。世界中のどの展示品よりも素敵だった。あぁ、早く日本に帰りたい。心の底からそう思った。

スコットランドのエディンバラは、オックスフォード以上の中世的な雰囲気。岩山の上にそびえ立つエディンバラ城からの眺めは絶景。この街の空気を吸い、美しい景色を眺めている間だけは、ラボでの陰惨たる苦悩を忘れられた。

クリスマスの一日も素晴らしかった。ホストファミリーが腕によりをかけて作った豪勢なディナー。特にチーズインマッシュポテトの、あの温かく優しい味は忘れられない。食後、リビングで観たホーム・アローン。何気ない会話と笑い声。同世代の姪御さんとの他愛ないおしゃべりは、忘れかけていた淡い感情を思い出させてくれた。

絶望的な日常の中にある、非日常の輝き。それは、灰色の世界に時折差し込む、鮮やかな光の筋だった。旅先での出会いや美しい風景、そして人の温もり。それらひとつひとつの記憶が、沈みゆく私の心がかろうじて意識を保てた支えだった。細く、しかし確かな一本の糸。身体に残る握力を総動員して手繰り寄せることで、私はまた一日、なんとか息を紡いでいけた。

絶望の淵で

持病は、主人の苦悩を嘲笑うかのように、着実にその牙を剥き始めていた。悪化の一途をたどり、ついには不整脈まで現れ始めた。時折、心臓が脈をひとつ飛ばす。その一瞬の静寂が、永遠の停止を予感させるようで、背筋を凍らせる。胸に何かが詰まったような息苦しさもあった。ストレスが危険水域に達していることを知らせる、身体からの明確なサイン。唾を飲み込むと、鉄の味がする。かつて喀血したM2の夏に血を吐いた記憶が鮮やかに蘇る。このままでは正気も健康も保てない。肉体が魂の悲鳴に耐えきれなくなっていた。

追い打ちをかけるように、金銭的な問題が冷酷な現実を突きつける。お金がない。イギリス留学を続けられないかもしれない。唯一の心の支えは、この留学の先に待っているはずだった欧州放浪の夢。トルコの喧騒、ギリシャの紺碧の海、ショパンの故郷ワルシャワの石畳… 頭の中で描き続けた旅の地図が、最後の望みだった。

改めて銀行口座の残高を計算した時、その地図は音を立てて破り捨てられた。手元に残る自由資金は10万円。3ヶ月の旅はおろか、1週間さえもままならない。ユーレイルパスと数日ぶんの宿泊料で儚くも消えてしまう。奨学金に手を付けるか否か。しかし、それは未来の自分に重い負債を押し付ける行為。夢見ていた最後の希望さえも、無情に断ち切られた。何を楽しみに、あと4ヶ月もこの地獄で過ごせばいいのか。ハーフマラソンだと思って走っていたら、突然フルマラソンに距離が伸びたような絶望感。ゴールテープは見えず、ただただ苦痛だけが続いていく。

「生まれて来なければよかった」

26回目の誕生日に、私はそう呟いた。祝福されるべき生命の記念日に、灰色の空の下で自身の存在を呪っていた。誕生日が来るたびに、身体がより一層衰えていく恐怖。選択肢が狭まっていって、何者にもなれなくなっていく窮屈さ。世界最高峰の学府にいながら、その知の恩恵を何一つ享受できい。ただ自身の存在価値のなさを噛み締め続ける。オックスフォードの空の下、私は完全に絶望していた。逃げ場のない閉塞感の中で、心はゆっくりと、しかし確実に死に向かっていた。

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