麻薬味の麻薬
ある日、弊社へ出社して仕事した。午前中はぽんぽこりんの業務を行い、昼は先輩と一緒に食べた。先輩は、研究所の購買で、大阪のおばちゃんぐらいコテコテの煮込みハンバーグ弁当を買った。調理をミスったのか、ハンバーグの中から、大阪のおばちゃんの手が出ていた。ハンバーグソースがトラ柄になっていた。私はいつものごとく精進料理。玄米とゆで卵と豆腐の三点ハッピーセットを先輩の前に広げた。
先輩から「いつもそれですね」と言われた。先輩には分からない。今日はですね、ゆで卵の茹で時間が、普段より一分長いんですよ。いつも同じだと飽きるじゃないですか。硬茹でにしてみると景色が変わりますよ。はんなりと「全然違います」と答えておいた。当然、相手はキョトンとしている。食べている間にも、先輩のハンバーグから突き出たトラがゴソゴソ動いている。
私は味付けなしで食べ物をムシャムシャ食べていく。食べ物は、噛めば噛むほど味が出る。食べ物本来の味を楽しめる。なんて贅沢なのだろうか。それ以上、何を望むというのか。先輩から「なんか(調味料を)かけないんですか?」と尋ねられた。「履いてないっすよ」間違えた、かけてないっすよ。
今日の晩御飯は、鶏むね肉のカレー風味スープ。300gの胸肉を12等分して、カレースパイスでじっくりコトコト煮込んでいく。色彩はニン・ジンとジャ・ガイモで整える。こういう料理を八年作ってきている。今年でもう九年目になるのか。そろそろインド人になれるかもしれない。気持ち、肌が黄ばんできた。おそらく走りすぎて日焼けしたせいだろう。
先輩から「味の素とか入れたらうまくなるんじゃないっすか?」との助言を受けた。味の素って、何のもとだろうか。新幹線グリーン席でしか売られていないアレのことだろうか。いや、札幌狸小路の路地裏でこっそり取引されているアレのことだろうか。あるいは、ハリーポッターの額に傷をつけた例のあの人のことだろうか。いずれにせよ、味の素だなんて聞いたことがない。使ったこともなければ触った記憶もないし、飲んだ記憶もなくもなくもない。
私は博士人材だけれども、一応、新入りということになっている。学部生や高卒のクソガキ 同期社員と同じ新入社員用帽子をかぶっている。新入社員は ほうれん草 が大切らしい。分からないものは素直に尋ねておけばスーパーの割引券を貰えるらしい。お金には困っていないが、もらえるものは何でももらっておく。
「味の素って、何すか?」と尋ねた。聞くと、味の素は人間の第五感を目覚めさせてくれるらしい。味覚には五種類ある。甘味、酸味、塩味、苦味、そして、うま味。味の素は、うま味を司る神である。天照大御神にアジシオを献上して天岩戸を開いたことで、古代史と古事記に名が刻まれた。要するに、味の素は2000年以上前からある。宮崎の高天原には味の素の滝があり、そこから各自でガラス瓶や哺乳瓶で採取しているのだとか。
うま味とは何か。日々、インフルエンサー界隈で盛んに議論されている。あまりにも不思議なその存在は、「ファンタスティックビーストと魔法の粉」とか、「おふくろの味の黒幕、いや弾幕」とか、「ハリーポッターと賢者の石の削りカス」とか言われている。その正体は、京都は祇園の割烹カウンターにある。
会社員として毎日たくさんの人と接していくにつれ、自身の食生活の異常さに少しずつ気付き始めてきた。周りを見渡しても、私より質素な弁当を広げる人は見当たらないのである。私は武士のような食事をとる傍ら、同期や先輩社員は豪華絢爛電光石火超絶怒涛七転八倒色即是空空即是色な綺羅星のごとき弁当を食べている。玄米を頬張りながら、ふと思った。学生時代よりお金をもらっているのだから、生活レベルを上げても構わないのではないか。食生活の改善は、豊かな精神と健康で文化的な素晴らしい妄想につながるであろう。
そろそろ自分も精進料理を卒業する頃合いか。大人の階段を一段ずつ昇っていかなければ。
帰り道、スーパーで味の素を買った。このようなものを買うのは甘えだとは思うが、甘えは時と場合に応じて許されるものである。自分の皮を破るために、いまこそ味の素を食卓に迎えよう。たかが白い粉が70gで300円もする。まあいいや。美味しければOKです。
家に帰り、さっそくカレースープに投下する。瓶を振って投げ入れた瞬間、手首の角度制御を完全に誤り、致死量に近い白い粉が鍋に雪崩れ込んだ。オーバーシュートにも程がある。J1デビューはもうじきだろう。いくら嘆いても仕方がない。覆水盆に返らず。グルタミン酸も瓶に返らず。ニホンザルも木から落っこちる。まあ、いいでしょう。閾値を超えた旨味は特異点となって、我が第五感を目覚めさせてくれるはずだから。
電気圧力鍋で三十分煮込み、出来上がった流体をお椀に入れる。味見のためにひと口すすってみたところ、「えぇ……」と声が出た。舌の上で核分裂反応が起きた。グルタミン酸ナトリウムが電離し、正電荷を帯びたナトリウムイオンが味蕾の表面を激しく叩く。ゼーベック電位が急上昇する。過電位を踏み越えて電圧が異常値に達し、流れてはいけない大きさの電流が報酬系へ勢いよく押し出された。
正確なことは分からないが、とにかくやばかった。麻薬が入っているんじゃないかっていうほど美味かった。こんなの、私の知っているカレーではない。カレー味の麻薬か、麻薬味の麻薬である。眼がカァーッと醒めて、試食が止まらなくなった。旨くて美味い。最高だろ、これ。こんな気持ちの良いものがスーパーで買えるだなんて。どうして今まで通り過ぎていたんだ。もっと早く買っておけばよかった。味の素は、愛情に満ちていた。魚缶ばかり食べて渇き切った心へ潤いがもたらされた。
三大欲求へ新たに「うま味欲」が加わり、余は四大欲求をかかえた煩悩の塊となり果てた。どこへ行くにも味の素が欠かせない身体になった。お米にもとりあえず味の素。味噌汁にも入れるし、イワシ缶にもかける。迷ったらとりあえず入れておく。アイツは入れれば入れるほど美味しくなる。味の素は、幸せのもとだった。何年振りかに食卓へ笑顔がもたらされた。口角を上げて味わう食事は至高である。何を食べても味の素の味しかしない。
酸いも甘いもうま味も嚙み分け、こうして人間はひとつずつ大人になっていく。なった気がして、また一つ、分からないことが増える。
コメント