研究室には独自の生態系が存在します。教授を中心に助教が脇を固め、その周囲をポスドクや博士課程の学生が衛星のように漂っている。修士の学生はさしずめ小惑星帯で、学部生は時折ふらりと飛んでくる流れ星みたいなものでしょうか。研究室という宇宙において、先輩と後輩の関係性は引力のように目に見えないけれど確実に全体のバランスを支えています。
気づけば自分も後輩を指導する側になっていた、という方は多いのではないでしょうか。つい最近まで先輩の背中を追いかけていたはずなのに、いつの間にか追いかけられる側に回っている。時の流れは残酷であり、研究室の世代交代は容赦がありません。
私は北大博士課程を一年短縮修了し、現在は大企業の開発部門で働いています。研究室時代を振り返ると、先輩から受けた指導が自分の研究力を大きく引き上げてくれましたし、自分が先輩の立場になってからは後輩との関わり方に毎日のように頭を抱えていました。手探りで後輩と向き合いながら正解を探し続ける日々は、研究と同じくらいしんどかったです。
今回の記事では、研究室における先輩が担うべき二つの役割と、後輩に期待される成長について書いていきます。先輩として何をすればいいのか途方に暮れている方にも、後輩としてどう過ごせばいいのかモヤモヤしている方にも、何かしら持ち帰れるものがあれば嬉しいです。
かめそれでは早速始めていきます
先輩の果たすべき二つの使命


後輩のために道を切り開くこと
研究というのは、地図もコンパスも持たないまま荒野をひたすら歩くような営みです。しかも荒野には落とし穴がランダムに配置されていて、たまにクマも出ます。比喩ではなく、北大は本当にクマが出ます。
クマの話はさておき、どんな手順で実験を組み立てるか考えるところから始まり、得られたデータをどう解析するか頭をひねり、研究全体をどの方向へ進めるか見極めるところまで、全部が手探りになるわけです。
先輩は研究という荒野をすでに何年か歩いてきた人間ですから、後に続く後輩のために少しでも歩きやすい道を整えてあげる責務があります。落とし穴の位置くらいは教えてあげましょう。自分がハマった穴に後輩まで落とすのは、もはや先輩ではなくトラップマスターです。
研究室で蓄積される知識には、大きく分けて二種類あります。
一つ目は形式知と呼ばれるもので、論文やマニュアルとして文章に残せる知識です。たとえば実験プロトコルは再現性の命綱ですし、データ解析の手法は結果の信頼性を左右します。論文の書き方に至っては、せっかくの研究成果を世に届けるためのまさに生命線です。実験系の研究室であれば、実験ノートのつけ方から測定機器の正しい操作手順まで、文書にまとめて引き継いでいく必要があるでしょう。
もう一つが暗黙知です。文章にするのが難しい経験則や勘所のことで、暗黙知のほうが厄介だったりします。実験がうまくいかないときにまず何を疑うべきかという判断軸や、査読者への返答をどう書けば火に油を注がずに穏便に済ませられるかという処世術は、実践の中でしか身につきません。マニュアルの外にある知識なのに、知っているかどうかで研究生活の快適さが天と地ほど変わるタイプの知恵です。
先輩が後輩に伝えるべきは、形式知と暗黙知の両方です。とりわけ暗黙知は、先輩が意識的に言葉にして伝えてこそ後輩に届きます。口にしなければ、後輩はとんでもない遠回りを強いられるでしょう。私も先輩から教わった暗黙知に何度救われたかわかりません。逆に、誰にも教えてもらえなかったせいで三日分の実験を丸ごとゴミ箱に送った経験もあります。失った三日間、返してほしい。本気で。
暗黙知を伝えるには、日々のコミュニケーションを通じた地道な指導が欠かせません。なぜ自分が特定の実験条件を選んだのか、どういう理由で特定の解析手法を採用したのかといった思考プロセスを言葉にして共有してあげてください。結論だけ教えると後輩は似た場面でまた迷子になりますが、結論に至るまでの道筋をセットで伝えてあげれば、次に近い状況に遭遇したとき自力で判断できるようになります。
研究室生活で得られる経験は、実験や論文だけにとどまりません。海外留学で異文化の研究スタイルに触れることもあれば、国際学会で英語のプレゼンに冷や汗をかくこともありますし、就職活動で研究の外にある世界の広さに驚くこともあるでしょう。キャリア形成に直結するイベントが次から次へとやってきます。
キャリアにまつわる場面で後輩の助けになるのが、先輩の進路選択の体験談です。なぜ博士課程に進んだのか、企業就職を選んだ決め手は何だったのか、準備にどれくらいの時間と労力がかかったのか。きれいごとだけでなく泥臭い本音まで含めて率直に語ってあげると、後輩のキャリア選択にとって貴重な判断材料になります。
成功談は聞いていて気持ちいいですが、実は後輩にとって一番ありがたいのは先輩の失敗談だったりします。自分は就活で準備が足りなくてコケた、という話のほうがずっと実用的ですし、何より後輩は安心するのです。先輩もコケるんだなと。
後輩の成長を促す壁になること
先輩には、ときとして厳しい姿勢で後輩に接しなければならない場面が訪れます。後輩の成長を本気で願うからこそ、あえてすぐには答えを渡さないという選択をするのです。ドSに目覚めたとかではなく、愛です。
たとえば後輩の実験がうまくいかなかったとき。解決策を直接教えてしまえば、目の前の問題は一瞬で片づきます。後輩もニコニコ、先輩もラクチン、研究室は平和。でも、答えを教え続ける対応ばかり繰り返していると、後輩が自分の頭で考える力を育てる機会を奪ってしまいます。先輩が引退した途端に研究室が機能停止する、なんて未来は避けたいですよね。
だから場面によってはぐっとこらえて、答え自体ではなく、答えにたどり着くための考え方を伝えてあげてほしいのです。データ解析の場面でも同様で、正解をポンと渡す代わりに、考察のポイントや着眼点だけを示して、後輩自身の頭で答えを導き出してもらう。
自分の頭で考え抜いて出した答えは、人から教わった答えとは定着度がまるで違います。苦しんだぶんだけ血肉になるのです。私自身、先輩に突き放されて夜中のラボで一人ウンウン唸っていた経験は数えきれませんが、突き放された日々の苦しみがあったからこそ博士課程を一年短縮する力がついたと確信しています。当時は正直ちょっと恨みました。いや、けっこう恨みました。でも今は感謝しています。
ただし、壁役を担ううえで絶対に忘れてはならないのがさじ加減です。後輩の実力をはるかに超えた課題をポイッと丸投げしたら、成長どころか心がバキバキに折れます。先輩に求められるのは、後輩の現在地を正確に見極めたうえで、ほんの少しだけ背伸びが必要な課題を設定してあげる目利き力です。
適度な試練を与えつつ、本当にどうにもならなくなったときにはさっと手を差し伸べてあげてください。放置と手取り足取りのちょうど中間にある絶妙なラインを攻め続けるのが先輩の腕の見せどころです。言葉にするとシンプルですが、実行するのはめちゃくちゃ難しいです。料理のレシピで塩少々って書いてあるのと同じくらい曖昧で、塩と同じくらい仕上がりを左右します。
後輩に期待されること


後輩の最大の使命は、先輩を超えることです。先輩超えは熱血マンガの世界の話に聞こえるかもしれませんが、学問が前に進むために必要な、極めて現実的な条件になります。
科学の歴史は、先人の成果を足場にしながら一歩先へ踏み出してきた人々の連なりで成り立っています。後輩がいつまでも先輩の劣化コピーにとどまっていたら、研究は永遠に同じ場所をぐるぐる回り続けることになります。同じ場所を回り続ける状態はもう研究ではなく、ただのランニングマシンです。景色が一切変わらないまま走り続ける虚しさは想像に難くないでしょう。
研究室に配属されたばかりの頃、先輩の研究手法や考え方をまねするのはごく自然なことです。実験ノートの書き方を見て記録の残し方を学び、データの整理方法を真似て情報の構造化を覚え、文献の読み解き方を参考にして論文から必要な情報を抜き出す力をつけていく。基本スキルは先輩のやり方を見て覚えるのが一番効率的でしょう。最初から完全オリジナルで突っ走ろうとする後輩もたまにいますが、大抵は盛大にコケます。守破離の守をすっ飛ばして破に行くのは無謀というものです。
ただし、真似の段階にずっと居座っているわけにもいきません。基礎が固まってきたら、徐々に自分なりの視点や手法を確立していく必要があります。先輩のやり方に対して疑問を持つことも、成長の大切なステップです。目の前の実験手順をもっと短縮できる方法はありそうだとか、別の分析手法を組み合わせたら今まで見えなかったものが見えてくるんじゃないかとか、自分なりの問いかけが研究を一段深いところへ連れていってくれます。
先輩の立場からすると、後輩が自分のやり方に異を唱えてくるのは正直ちょっとドキッとします。え、自分のやり方間違ってたの、と一瞬不安になることもあるでしょう。でも、後輩からの異議申し立てこそが健全な研究室の証拠なのです。疑問を口にせず黙々と従うだけの研究室は、一見平和に見えます。ただし、静かなのと停滞しているのは全然違いますからね。
やがて後輩自身も先輩になります。下の世代を育てる立場に立ったとき、知識を右から左に流すだけの伝書鳩では務まりません。自分自身の体験と思考に裏打ちされた知恵を伝えられる存在になっていてほしいのです。
よき伝承者になるために必要なのは、日々の研究における主体的な姿勢です。与えられた課題をこなすだけで満足せず、常になぜと問い続けて、もっと良い方法を探し回る態度が求められます。研究室の中だけで完結せず、外の世界にも積極的に目を向けて、多様な視点や考え方に触れておくことも大切でしょう。引き出しの数が多い人間ほど、後輩に伝えられるものの幅も奥行きも段違いに広がりますから。
最後に
研究室における先輩と後輩の関係は、上下関係よりもずっと奥が深く、知識を一方的に流し込む配管工事とも根本的に違います。先輩は地図なき荒野に道を切り開く開拓者であり、後輩の成長を促すためにあえて立ちはだかる壁でもあります。後輩は先人の知恵を貪欲に吸収しながら、やがて先輩という壁を乗り越えていく挑戦者です。
私自身、企業エンジニアになった今でも、研究室時代に先輩から受けた指導の意味をふと噛みしめる瞬間があります。当時は理不尽だと思っていた対応の裏に、ちゃんと計算された意図があったのだと気づくまでに数年かかりました。気づいた頃にはもう感謝を伝えるタイミングを盛大に逃していたりするので、心当たりのある方は今すぐLINEを開いたほうがいいかもしれません。卒業してから何年経っていても、先輩は後輩からの感謝の言葉を嫌がったりしませんから。
今まさに研究室で先輩として奮闘している方は、後輩の成長を支える存在として堂々と振る舞ってください。後輩の皆さんは、先輩から貪欲に学びつつも、いつか追い抜いてやるぞという野心を静かに燃やしておいてください。


















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