電池研究者のみなさん、お元気ですか。私は元気ではありません。正確に言うと、体の水分が元気ではありません。
リチウムイオン電池をはじめ、二次電池の研究に欠かせない設備として、ドライルームがあります。露点マイナス40℃以下という、サハラ砂漠もびっくりの超低湿度空間で、私たちは日々セルを組み立てているわけです。
電池にとっては最高の環境ですが、人間にとっては最悪の環境です。電池の性能を守るために、人間の健康が静かに差し出されている。次世代電池の研究は、美しくも残酷な犠牲の上に成り立っています。
今回は、B4からD2まで5年間をドライルームとともに過ごした私が、身体と引き換えに何を失ったのかを記していきます。ドライルームに入る予定がある方は、覚悟を決める材料にしてください。
かめそれでは早速始めましょう!
慢性的な乾燥肌
ドライルームに入って最初に異変を感じるのは、やはり肌です。入室して5分もすれば手の甲がカサカサしてきますし、10分もすると指先がひび割れそうになります。30分も経てば、自分が人間なのか干物なのか分からなくなるでしょう。
露点マイナス40℃の空間では、肌の水分が恐ろしい速度で空気中に奪われていきます。化粧水を塗ろうがハンドクリームを塗ろうが、塗った瞬間から蒸発が始まるので、保湿という概念がもはや成立しません。焼け石に水とはまさにこのことです。いや、乾いた石に水と言うべきでしょうか。
やっかいなのは、乾燥の影響がドライルームの外にまで及ぶことです。毎日のように極度の低湿度環境に身を置いていると、肌のバリア機能が慢性的にダメージを受けます。角質層がボロボロになった肌は、普通の湿度の部屋にいても水分を保持しにくくなっていくのです。冬場なんて特にひどくて、手の甲は常にあかぎれだらけでした。お風呂に入れば傷口に沁みるので、一日の終わりまでずっと痛い。電池のためにここまで尽くしているのに、電池は何も返してくれません。
研究室の後輩に「先輩、おじいちゃんみたいな手してますね」と言われたときの悲しさは、今でも忘れられません。私はまだ20代だったんですけどね。まだまだ介護なしで頑張れます。
慢性的なドライアイ
肌に続いて犠牲になるのが目。ドライルームでは、まばたきのたびに目の表面から水分が飛んでいきます。普段は涙液が目を守ってくれていますが、ドライルーム内の環境では涙の供給が蒸発速度にまったく追いつきません。目を開けているだけで修行のような気分になります。
研究室配属当初は、ドライルームを出れば目の潤いが戻っていました。ところが何年も通い続けると、涙の分泌機能自体が弱ってくるのか、普通の部屋にいてもゴロゴロとした違和感が消えなくなってきます。パソコンの画面を長時間見ていると、目が痛くて集中できません。論文を読むにもデータを整理するにも目は使うわけですから、研究者としてはかなり致命的なダメージです。
眼科に行くと、見事にドライアイの診断をいただきました。先生から「お仕事は何をされてますか」と聞かれて「電池の研究です」と答えたら、少し困った顔をされました。ドライルームに入るなとも言えないし、でも入り続ければ悪化するのは明らかだし。先生の困惑はもっともです。入室前に処方された目薬を差してからドライルームで目を乾かすというファンタスティックな日々が始まりました。
ちなみに防護メガネをかければ多少はマシになりますが、防護メガネをつけたまま顕微鏡を覗くのは至難の業です。結局、目の健康を取るか研究効率を取るかの二択を迫られることになります。研究室という空間では研究効率が勝つに決まっているので、目には申し訳ないと思いながら今日もレンズに裸眼を押し当てていました。
汗をかきたくてもかけない体質になる
ここからはちょっと怖い話をします。
ドライルームの中では湿度がほぼゼロに近いため、汗をかいても瞬時に蒸発してしまいます。汗をかいている実感がまったくないまま、体の水分が失われていくのです。長期間にわたって汗の蒸発を繰り返していると、体が汗をかくこと自体をサボり始めます。
人間の体には、使わない機能を徐々に退化させていく性質があり、汗をかく必要のない環境に長く身を置いていると、汗腺がだんだんと仕事を忘れていくわけです。久しぶりに夏の屋外に出たとき、周りの人がみんな汗だくなのに自分だけ妙に涼しい顔をしていたことがあります。最初はちょっとした優越感を覚えたりもしましたが、実はまったく喜べる話ではありません。
汗をかけないということは、体温調節がうまくいかないということです。暑い日に体の熱を逃がせないので、熱中症のリスクが跳ね上がります。ドライルームの中では快適に過ごせても、外の世界に戻ったときに体が適応できない。深海魚が急に浅い海へ引き上げられるようなもので、研究環境に最適化された体は日常生活の中でかえって脆くなるのです。
電池研究を頑張った結果、夏が怖い人間になる。学会のポスターセッション会場が蒸し暑いと、一人だけ顔が真っ赤になっているのに汗をかいていないっていう不気味な存在が爆誕します。望んだ覚えのない特殊能力を手に入れてしまいました。
頭がぼーっとするようになる
ドライルームに長時間滞在していると、なんだか思考がぼんやりしてきます。最初は疲れのせいだと思っていたのですが、どうやら原因は疲れだけではないようです。
極端に乾燥した環境に長くいると、鼻や喉の粘膜が乾いて呼吸が浅くなりがちに。粘膜の乾燥による不快感から無意識に呼吸を抑えるようになり、脳に届く酸素の量がわずかに減ってしまいます。
加えて、体の水分が常に奪われ続けているわけですから、軽い脱水状態にも陥りやすくなるのです。脱水が判断力や集中力を低下させることはよく知られています。ドライルームの場合は乾燥の影響で喉の渇きすら感じにくくなっているため、脱水の自覚がないまま静かに進行していくところが厄介です。
私の場合、ドライルーム内で書いたメモが、後から読み返すと入室直後と2時間後でまるで別人の字になっていることがよくありました。入室直後は丁寧に条件を記録しているのに、2時間後のメモは文字が崩壊していて自分でも解読できません。集中力が落ちているのはもちろん困りますが、もっと深刻なのは、集中力が落ちていること自体に気づけないことです。本人は普通にやっているつもりなのに、いつの間にかパフォーマンスが劣化していく。
曖昧な記録のせいで実験をやり直す羽目になったことも一度や二度ではありません。電池を守るための部屋が研究の足を引っ張っているという、なんとも皮肉な話です。みなさん、ドライルーム作業中は、こまめに部屋を出て水を飲みましょう。
最後に
ここまで読んでくださった方には、ドライルームがいかに過酷な環境であるか伝わったのではないでしょうか。肌は干からび、目は乾き、汗をかく力すら失われ、最後には頭まで働かなくなっていく。『電池研究』というキラキラしたイメージの裏側には、研究者の体から水分をじわじわと絞り取るという、あまりにも地味な犠牲がひそんでいます。
とはいえ、ドライルームでの研究を否定したいわけではありません。リチウムイオン電池の性能向上にしても次世代電池の開発にしても、ドライルームなしには成し遂げられません。私たちの生活を支えるスマートフォンや電気自動車だって、誰かがカサカサの手でセルを組み立ててくれたおかげで動いています。考えてみると少しだけ誇らしい気持ちにもなります。ほんの少しだけですけど。
ドライルームでの研究生活をこれから始めるみなさんへ。保湿クリームと目薬は研究用具だと思ってください。水分補給は絶対にサボらないでください。乾燥した環境で頑張っている自分の体を、たまには労ってあげてください。
ドライルームに人生の水分を捧げた者より、愛を込めて。


















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