博士課程への進学先として私が選んだのは、修士課程まで在籍していた研究室でした。慣れた環境で研究を続けたかったのです。実験装置の配置も、部屋に漂う薬品の匂いも、夜の静けささえも自分の生活の一部になっていました。新しい環境に移るより、馴染んだ場所で腰を据えて研究を進めた方が成果を出しやすいと考えていた。
けれども、進学を決めるにあたって一つ大きな懸念がありました。研究室の開設から十年、一人も博士号を取得した人がいなかったのです。博士課程の先輩はおらず、指導教員にも博士学生を指導した経験がありませんでした。
自分は、これまで誰も踏み入れたことのない場所に足を踏み出そうとしている。その事実が、心のどこかで重く響いていました。
「本当にこの環境でやっていけるのだろうか」
何度もそう問いかけましたが、研究への情熱を手放すことができませんでした。むしろ、博士号取得者がいないからこそ、自分が最初の一人になりたいという気持ちが次第に強くなっていったのです。不安と期待が入り混じる中で、私はD進を決意しました。
この記事では、博士人材の輩出実績がない研究室で進学を決める前に、私が実際に行った準備や考えたことを紹介します。周囲にD進者がいない環境で迷っている方の参考になれば幸いです。
かめそれでは早速始めましょう!
博士学生がいない理由を探る


博士課程の学生がいない研究室には、必ず何かしらの理由があります。それを知らずに進学するのは、霧の中を歩くようなものです。
私も進学を考えたとき、まず「なぜこの研究室には博士学生がいないのか」を徹底的に考えました。
もしかすると、博士課程の先輩がいないこと自体が不安で、誰も後を継がなかったのかもしれません。あるいは、研究テーマに将来性を感じられず、修士で区切りをつける学生が多かったのかもしれません。さらに踏み込んで考えるなら、過去に博士学生がいた時期があったものの、途中で退学してしまった可能性もあります。
サポート体制が整っていなかったのか、あるいは人間関係のトラブルがあったのか──理由は一つではないはずです。
私が所属していた研究室でも、細かく調べていくうちにいくつかの事情が見えてきました。一部の学生は研究テーマの方向性に納得できず、別の道を選んでいました。また、先生の指導スタイルが厳しく、精神的に合わなかったという声もありました。
D進を選ばなかった背景を知ることで、「博士学生がいない事実」が単なる偶然ではないことに気づかされます。
進学を検討している研究室に博士学生がいない場合、その理由を受け入れられるかどうかを自分に問いかけてください。
問題の根が深いと感じるなら、慎重に距離をとる方がいいかもしれません。逆に、環境の課題が自分の努力で補える程度だと判断できるなら、挑戦する価値はあります。
「博士学生がいない理由」を知ることは、D進の覚悟を測るリトマス紙のようなものです。
研究室の魅力と懸念を天秤にかけ、自分の力と気持ちがどちらを上回るのかを冷静に見極める。それが、後悔のない進学の第一歩になると思います。
三年以内の修了可能性を数値化する


博士課程への進学を検討している人に、ぜひ一度やってほしいことがあります。それは、自分が三年以内に修了できる可能性を「数値化」してみることです。感覚ではなく、数字として可視化すすれば、ぼんやりした不安が少し整理されるかもしれません。
私が当時使っていた指標は、次の三項目でした。
修了可能性 [%] =研究進捗(max 50点)+人間関係(max 30点)+メンタルヘルス(max 20点)
まずは研究の進み具合です。テーマとの相性、実験の再現性、使用できる装置の状態、そして指導体制。これらを総合して評価します。
研究が順調に進んでいるなら、それだけで修了の見通しは明るくなります。逆に、テーマが重すぎたり、装置が古くて思うようにデータが取れなかったりするなら、減点せざるを得ません。研究進捗は全体の中でもっとも比重の大きい項目です。
次に人間関係。博士課程では、指導教員との関係性が修了を左右します。三年間、ほぼ毎日のように顔を合わせる相手ですから、相性の良し悪しは大きいです。
ときには意見がぶつかることもあるでしょう。しかし、対立しても建設的に話し合える関係であれば問題ありません。むしろ健全です。もしも小さな誤解が致命的な断絶に発展しそうなら、早めに軌道修正を考える必要があります。人間関係の項目は最大30点。ここには、同僚や後輩との関係も含めて考えます。
そして最後に、メンタルヘルス。博士課程は長い戦いです。論文が通らない日々や、結果が出ない焦りに耐える精神力が求められます。孤独に向き合う時間も長く、心のスタミナが切れた瞬間にすべてが崩れることもあります。20点満点中、自分のタフさや回復力をどう評価するかを考えてみてください。
私はこの方法で自己採点をしました。研究進捗は45点、人間関係は20点、メンタルは10点。合計75点でした。
数字だけを見れば十分に挑戦できる水準でしたが、正直に言えば自信があったわけではありません。それでも、「メンタルの弱さは研究の進み具合で補えばいい」と自分に言い聞かせ、進学を決意しました。
このように数値化してみると、感情に流されていた判断が少し客観的になります。
もし70点を超えるなら、博士学生がいない研究室でも挑戦する価値はあるでしょう。60点前後なら慎重な検討を、50点を下回るようなら他の進路を考えるのも一つの選択です。数字は冷たいようでいて、時に自分を守る防波堤にもなります。進学を決める前に、一度冷静な自己診断をしてみてください。
ロールモデルになる覚悟を固める


博士課程に進学するにあたって、最大の壁は「覚悟」を固めることではないでしょうか。研究そのものよりも、日々の孤独や不安に向き合う時間の方がずっと長いからです。
特に博士学生が一人もいない研究室では、頼れる存在がいません。困っても相談できる相手はおらず、目の前の問題にひとりで取り組むしかない。それは想像以上に厳しい現実です。
私自身、進学当初は「なんとかなる」と軽く考えていました。しかし、日が経つにつれて孤独の重さを思い知りました。研究の停滞、論文の不採択、実験の失敗――そうした出来事が積み重なるたびに、自分の居場所が少しずつ削れていく感覚に襲われました。
博士課程は、忍耐の持続力を問われる時間です。心が折れそうになっても、明日も研究室のドアを開ける。苦しい営みを三年間続けるだけの覚悟が必要になります。
さらに難しいのは、年齢の異なる後輩たちとの関わりですね。
学部生や修士の学生とは世代も価値観も違います。研究への姿勢や使う言葉ひとつにも隔たりを感じ、うまくコミュニケーションが取れないこともありました。「同じラボにいるのに、誰ともつながっている感じがしない」と感じた時期もあります。
博士課程の学生が不在の研究室に進むということは、いずれ自分が最初のロールモデルになるということです。あなたが進学したその瞬間から、後に続く誰かの視線が、静かにあなたに向けられます。「この人が頑張っているなら、自分も挑戦してみよう」と思ってもらえるような姿を見せることが、次の世代を動かす原動力になるかもしれません。


















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