くちゃくちゃ、ズルズル、スンスン
世の中には、他人が発する特定の音に対して強い不快感や怒りを覚える人々がいます。これをミソフォニア(音嫌悪症)と呼びます。私もその一人です。
咀嚼音や、鼻すすり、キーボードを叩く音、ペンをカチカチする音。普段、人が何気なく発するこのような音に耐えられません。不快な音が耳に入った瞬間、心臓がギュッと締め付けられ、全身に不快感が走る。気にしすぎだよとか神経質だねとかと言われることもありますが、これは意志の問題ではありません。脳が勝手に反応してしまうのです。
そんなミソフォニア持ちの私が、同じ症状を抱える方々に声を大にして伝えたいことがあります。
博士課程に進学しなさい。
いきなり言われても困りますよね。「は?」と思われるかもしれません。博士課程といえば、ネガティブなイメージが先行しがち。研究漬けの日々だとか、修了しても将来が不安定だとか。しかし、ミソフォニア持ちにとって、博士号取得は人生を大きく好転させる可能性を秘めています。
この記事では、ミソフォニア当事者である私の実体験を交えながら、なぜ博士課程進学をオススメするのかを解説していきます。音ストレスのない未来を手に入れたい学生さんにピッタリな内容です。ぜひ最後までご覧ください。
かめそれでは早速始めましょう!
博士課程を修了すると博士号が得られる
まず、大学院の仕組みを簡単に説明しておきましょう。
学部を卒業すると、多くの学生が大学院に進学します。特に理系では半数以上が大学院の門を叩きます。大学院には前期課程(修士課程)と後期課程(博士課程)があり、修士課程は2年間です。修士課程を修了すると、約9割の人が企業や官公庁に就職します。残りの1割が博士課程に進むという形。
博士課程は、ひたすら研究するところです。学会発表をこなし、論文を書き、一定の研究成果を挙げることで博士号を取得できます。博士号を手にすれば、研究職への道が開けます。大学に残ってアカデミアの世界で生きていくことも可能。企業に就職する際には 配属ガチャ に悩まされることなく希望の部門に配属されるでしょう。
ここが重要なポイントです。修士以下で企業に入ると、どの部署に配属されるかは運次第です。営業に回されるかもしれませんし、工場勤務になるかもしれません。しかし博士号を持っていれば、配属先は採用時に決まります。博士人材の専門性を活かせる場所に、つまりは研究部門に配属されるのです。
ミソフォニアの方には「研究職」を強くオススメしたい。理由は後述しますが、研究職の音環境は他の職種と比べて圧倒的に良いからです。
ここで、私自身の失敗談を共有しておきます。
私は博士号を取得して企業に入社しましたが、実は自ら望んで開発部門への配属を希望しました。学生時代は研究室にこもって基礎研究ばかりしていたから、実際のモノづくりの現場に近いところで働いてみたかったのです。製品開発の最前線で働いて働いて働いて、数年経ってから次のキャリアを考える計画でした。
しかし、現実はそう甘くありません。開発部署のオフィスは、不快な音で溢れていました。隣の席からは絶え間ない鼻すすり。向かいの席からはガムを噛む音。後ろからはペンをカチカチする音。電話の話し声、キーボードを叩く音、咳払い、独り言。四方八方から音の矢が飛んできます。
正直書きますが、毎日、グッタリするほどストレスを溜めています。オフィスで30分過ごすだけでヘロヘロになり、一時間も経てば頭がショート。勤務時間である八時間経った頃には抜け殻になっていますよ。
開発部員の私ですが、たまに実験で技術研究所に行くことがあります。技研は驚くほど静かで、開発オフィスよりもずっと快適に過ごせます。研究員たちは黙々と自分の作業に集中しており、不必要な音を立てる人がほとんどいません。
技研から開発棟に戻るたびに、素直に研究部門を選んでおけばよかったと心から後悔します。どうしてあんな ひねくれた ことをしたのだろう。研究部署に行かず、自らストレス源に突っ込みに行くなど自殺行為でした。今の私は、開発部署で溜めたストレスを、技研での作業日と在宅ワークでなんとか発散しながら生き延びています。崖っぷちでバランスを取りながらおそるおそる歩いている毎日です。
私のように辛い思いをしたくない方は、博士号を取ったら迷わず研究部門を志望することをオススメします。「現場に近いところで働きたい」などというロマンチックな理由で部署選びをしてはいけません。ミソフォニア持ちにとって、音環境の良さは何物にも代えがたい価値があるのです。
研究職は静かな音環境で働ける
一般的なオフィスを想像してみてください。広いフロアにデスクが並び、数十人、場合によっては百人以上の人間がひしめき合っています。電話が鳴り、会議の声が漏れ聞こえ、プリンターが唸りを上げる。誰かが菓子を食べ、誰かが鼻をすする。別の誰かは貧乏ゆすりをしている。
普通の人にとっては何も問題ありません。でもミソフォニア持ちにとって、これは地獄絵図です。トリガー音が四方から飛んでくる可能性があり、心が休まる暇がありません。
そもそも、ミソフォニアは我慢でどうにかなるものではありません。脳が音に対して無意識に反応し、不快感や怒りが自動的に湧き上がってくるのです。この反応を意志で抑え込むのは不可能というものでしょう。
その点、研究部門は違います。
研究所は基本的に静かです。研究者一人ひとりが集中状態にあり、周囲に配慮する文化が自然と根付いています。不必要な雑談は少なく、音を立てる行為が暗黙のうちに忌避される環境があります。
さらに、研究員は実験室に入り浸ることが多いです。実験室には様々な機械が稼働しており、ファンの音や装置の駆動音が常に鳴っています。我々の恐れるトリガー音を機械が打ち消してくれるのです。空調の音や機械の稼働音は、ミソフォニア持ちにとってバックグラウンドノイズとして機能します。つまり、実験室にいる間は、安心して作業に没頭できるのです。
ミソフォニアの人にとって、被弾するトリガー音の量をどれだけ抑えらえるかは死活問題です。朝起きてから夜寝るまで、いかに不快な音を避けて生きるかに多くのリソースを割いていらっしゃる方も多いでしょう。研究職であれば、嫌な音を浴びずに一日を過ごせる確率が格段に高いです。
もう一つ、見逃せないポイントがあります。研究職に就く人は、そもそもトリガー音をあまり発しません。
研究者というのは、高い教育を受け、論理的思考を重視し、周囲への配慮ができる人が多い傾向にあります。鼻をすすったり、口を開けてくちゃくちゃ音を立てながら食べることが不衛生でありマナー違反であると心得ています。言葉は悪いかもしれませんが、「レベルの高い人」が集まっているのです。
私自身、学生時代に国立研究所で研究生活を送っていました。国研で過ごした日々は、音の観点において天国でした。周囲の研究者たちが静かに研究しており、不快な音を立てる人は皆無に近かったのです。あまりにも快適すぎて、自分がミソフォニアであることをつい忘れてしまう日もあったほどです。(大学に戻りたくないなぁ)と心から思わせられました。
鼻すすりがご法度となっている国で働く権利を得られる
多くのミソフォニア持ちにとって、鼻すすりはメジャーなトリガー音ではないでしょうか。私もあの音が大嫌い。あのズルズル、スンスンという音を聞くたびに、全身がゾクッとして吐き気を催します。
日本では、電車の中でも、オフィスでも、カフェでも、いたるところで鼻すすりが聞こえてきます。花粉症の季節などは、外出すること自体が苦行となるかもしれません。私自身、3~4月はなるべく屋内で人と過ごしたくないと思っています。
ここで世界に目を向けてみると、日本とは事情が違う国が多くあることに気づきます。
アメリカをはじめとする多くの欧米諸国では、鼻をすするのはマナー違反とされています。鼻水が出たらすぐにティッシュかハンカチでかむのが当然の作法であり、人前でズルズルと鼻をすする行為は眉をひそめられる対象です。鼻すすり音がトリガーの方にとって、この上なく魅力的な環境ではないでしょうか。
日本では当たり前のように行われている行為が、海外ではマナー違反として忌避されています。つまり、海外で暮らせば、トリガー音に悩まされる頻度が劇的に減る可能性もあるのです。
ここでようやく、先ほどお話しした博士号が効いてきます。
ハッキリ言って、日本では博士号の価値が正当に評価されているとは言い難い状況です。博士は使いにくいとか、専門バカといった偏見が根強く残っており、民間企業への就職で不利になるケースすらあります。苦労して博士号を得ても、修士人材とほんの少ししか給与が変わらないことも多いです。
しかし海外では——というか、日本以外のほとんどの国では——博士号は就職において大きなアドバンテージとなります。博士号を持っていれば、給与面でも採用面でも確実に優遇されます。専門性を持った高度人材として尊重され、それに見合った待遇を受けられるのです。
博士号を取得すれば、より良い音環境を求めて日本を離れる選択肢が生まれます。アメリカ、イギリス、ドイツ、オーストラリアなど、鼻すすりを始めとしたトリガー音の発射がマナー違反とされる国で、専門性を活かして働く道が開けるのです。
ミソフォニアを抱えながら日本で生きていくのは、正直言って辛いです。満員電車の中でも、オフィスの中でも、飲食店でも、どこに行ってもトリガー音から逃れられません。この国の文化や習慣を変えることは難しいです。今さら「鼻をすするのはマナー違反です」と言っても無視されるのがオチでしょう。自分自身、母に「鼻をすすらないで」で何度言っても聞いてもらえませんでした。
日本を変えるのは難しい。ならば、自らが環境を変えればいいのです。苦しまず、自由に生きていく道を切り拓くのに、博士号はまたとない武器となるのではないでしょうか。
もちろん、博士号以外にもお金を稼ぐ手段はたくさんあります。YouTuberやフリーランスのエンジニアなど、場所を選ばず稼げるスキルがあれば、そもそも博士号など必要ありません。どこでも好きな場所で、自分のペースで心を落ち着けて仕事を進められます。
しかし、自営業やフリーランスに適性のある人ばかりではありませんよね。私のように、組織に属してしか収入を得られないタイプの人もいます。自分で仕事を取ってくる営業力がない、確定申告の手間が嫌だ、孤独に働くのが辛い——理由は様々ですが、会社員として働く方が性に合っている人は確実に存在します。
自分が自営業に向いていない、かつ、ミソフォニアである。両方当てはまった人には、博士号の取得を心からオススメしたいです。博士号を取れば、組織人として働きながらも、音環境の良い研究職に就けます。また、必要とあらば、博士号を武器に海外へ飛び出すこともできる。博士号とは人生の選択肢を広げてくれる、かけがえのない資格なのです。
博士号でミソフォニアを「武器」に変えよう
ミソフォニアを抱えながら生きていくのは、本当に大変です。周囲の人には理解されにくく、気にしすぎだよと片付けられることも多いでしょう。トリガー音を避けるために様々な工夫をしても、完全に逃れることは難しい。
しかし、ここまで読んでくださったあなたには、もう一つの視点を持ってほしい。
ミソフォニアにも強みがあります。それは、環境さえ整えば、常人離れした集中力を発揮できるという点です。トリガー音のない静かな環境に身を置いたとき、ミソフォニア持ちは驚くほど深く作業に没頭できるものです。
その点、研究職は天職でしょう。なんせ、静かな研究室で、誰にも邪魔されず、一つの課題にとことん向き合えますから。
普通の人は一人だと寂しいので、なかなか一人で思考を巡らすことができません。しかしミソフォニアの人は逆で、一人の方が音を怖がらずに済んで落ち着くし、かえって深く考えられますよね。ミソフォニアの持つ厄介な特性が、研究業界ではむしろ武器となるのです。
私自身、国研時代は信じられないほど研究が捗りました。朝から晩まで実験に没頭し、気づけば日が暮れている。そんな日々を過ごせたのは、音ストレスから解放されていたからに他なりません。
この記事では博士課程進学をオススメしました。確かに博士課程は大変です。乗り越えなければならない壁は多いです。研究適性のない方が進学すると、それはそれで地獄を見ます。ただ、博士課程を修了した先には、静かな音環境と、自分の才能を存分に発揮できる舞台が待っているでしょう。
ミソフォニアを持つ同志たちへ伝えたいのは、もし研究に少しでも興味があるなら、博士課程進学を真剣に検討してみては? ということ。あなたの人生を音の苦しみから救ってくれるのは博士号かもしれません。



















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