【結晶学】デンドライトマニアがデンドライトについて気が済むまで存分に語る記事

目次

デンドライトに心を奪われて

デンドライトという言葉を聞いたことがあるでしょうか。デンドライトとは、ギリシャ語で木を意味するdendronに由来する言葉で、日本語では樹状突起と訳されます。デンドライト析出とは、電池の中で金属リチウムが樹枝のような形に析出する現象のこと。デンドライトは電池を劣化させる厄介者として知られていて、電池研究者の多くはデンドライトを目の敵にしています。

私は博士課程の5年間、このデンドライトを毎日顕微鏡で観察し続けていました。朝起きてラボに行き、セルを組み、充電をかけ、デンドライトが生まれる瞬間を待っていました。傍から見れば地味な研究生活だったと思います。しかし、私にとってはドラマチックな毎日でした。なにせ、毎日、愛しい存在の誕生に立ち会えるのです。産婦人科医でもないのに、この特権は何だろうと思っていました。

電池の世界でデンドライトは厄介者です。電池を短絡させたり、寿命を縮めたりするし、時には発火の原因にもなります。研究論文を開けば、デンドライトの抑制だの除去だのといった言葉がズラリと並んでいる。デンドライトはリチウムイオン電池の性能向上を阻む最大の敵であり、人類のエネルギー問題解決を妨げる憎きやつです。電池系の全国学会に行けば、みんな口を揃えてデンドライトの悪口を言っています。

デンドライトの味方は誰もいません。私を除いて、一人もいない。

私が従事していた研究テーマは、リチウムのデンドライト状析出をいかに抑制するかというものでした。敵を知るためには、まず敵を観察しなければならない。孫子の兵法よろしく、敵情視察のつもりで顕微鏡に向かっていました。

しかしある日、顕微鏡の向こうでリチウムが樹枝状に伸びていく様子を見ながら、息を呑んでいる自分がいました。あろうことか、美しいと思ってしまったのです。敵を観察しているはずが、いつの間にか心を掴まれてしまっていた。枝が伸びていく様子に目を奪われて、ドライアイで目がガビガビになってしまいました。もし、戦場で敵兵に見惚れる兵士がいたら、間違いなくその場でクビでしょう。私は研究者として大丈夫なのだろうかと、少し心配になりました。

電池研究者がデンドライトを「美しい」と言うのは、医者が病気を愛でるようなものかもしれません。あるいは、警察官が犯罪の手口に感心するようなものでしょうか。いずれにせよ職業倫理的にまずい。そんなことは分かっているのだけれども、愛さずにはいられませんでした。

デンドライトは、排除すべき敵から、理解したい存在になりました。もっと知りたい。もっと見ていたい。どうしてこんな形になるのか知りたい。気づけば私はデンドライトのことばかり考えるようになっていたのです。

無秩序に枝を伸ばすデンドライトに、どうしようもなく惹かれてしまいました。今にして思えば、あれは一種の恋だったのかもしれません。我が大学院時代の熱愛対象は、生身の人間ではなく、金属リチウムの析出物でした。マッチングアプリなんかやる暇はありません。恋人を見るために論文を開いたり実験機をかけたりしなければなりませんから。人間として、ちょっとどうなのかと思います。しかし恋に落ちる瞬間というのは、往々にして不意打ちです。恋は相手を選べません。

まさか自分が金属に恋をする日が来るとは思いませんでした。人生て、何が起こるか分からないものですね。

デンドライトとは、生きようとする意志の結晶である

電極表面のデンドライトを顕微鏡で見てみると、冬枯れの木のように見えます。あるいは、天から降ってきた稲妻をそのまま固めたようにも見えるかもしれません。いずれにせよ、一度見たら目の裏に焼きついて、もう二度と忘れられない形をしています。

なぜ、デンドライトはあんな形になるのか。それは、彼らが極限状態に追い込まれるからです。リチウムにとって電池の中は極めて過酷な環境です。

電池を充電するとき、リチウムイオンは電池の中を泳いでいき、負極に収まろうとします。ゆっくり充電すれば、リチウムイオンは一つずつ順番に電極の内部へ入っていけるのです。ところが急速充電を開始すると、大量のリチウムイオンが一斉に負極へ殺到します。埼京線の通勤電車に乗客が押し込まれていくような状況です。

負極の入り口は狭いです。当然、リチウムイオンは負極の外で渋滞してしまいます。負極内に入れたリチウムイオンは、「やれやれ、とんでもない目に遭ったわい」とグリーン車に腰を下ろす。負極の外では、負極に入れなかったリチウムイオンたちが「おい、オレも入れろ!」と絶叫する。やがて、行き場を失った負極外のリチウムイオンらは、渋滞待ちに疲れ果て、仕方なく負極表面で金属として固まり始めます。電車に乗れなかった乗客が、ホームの上にテントを張って住み始めるようなものです。これがデンドライトの始まりです。

一度テントが建ち始めると、状況はさらに過酷になります。後から後から新しい乗客が押し寄せてくるからです。電車には乗れない。でも駅から出られもしない。仕方がないから、誰かのテントの隣に自分のテントを張る。すると、隣にまた誰かが来る。やがて、テント村はホームからはみ出し、線路の上にまで広がっていくでしょう。

整った街並みを作るには、一人ずつ区画を決めて建てる時間が必要です。しかしこの駅にはその余裕がありません。次から次へと押し寄せる乗客を受け入れるために、テント村は空いている方向へ手当たり次第に伸びていくしかないのです。無秩序な樹枝状の構造は、パンク寸前の駅でテント村が必死に膨張し続けた結果なのです。

・・・・・・・

水晶やダイヤモンドには整然とした美しさがあります。対称性があり、形が端正であるがゆえ、宝石として珍重されてきました。結婚指輪にはダイヤモンドを、インテリアには水晶を、冬の風物詩には雪の結晶を。人類は昔から整った結晶を愛してきました。

一方で、デンドライトは形に美しさがありません。枝は好き勝手な方向に伸びているし、太さもまちまち。全体的に混沌としています。デンドライトを宝石にしようと思う人はいないでしょう。もし、プロポーズの場でデンドライトの指輪を差し出したらどうなるか。結婚どころか、二度と連絡が来なくなる可能性が高いですよ。やめておきましょう。

でも私は、不格好なデンドライトの姿に、物質としての必死さを見てしまうのです。

ダイヤモンドは地下深くでゆっくり何万年もかけて成長します。時間的にも空間的にも余裕たっぷりで育てられ、鷹揚とした王者の風格で永遠の輝きを放っています。一方、デンドライトは、電池の中で数秒から数分で形成されます。彼らは慌ただしく産まれ、慌ただしく育ち、周囲の環境に翻弄されながら何とか形を成そうと、何とか存在しようと試みる。デンドライトの姿には、物質としての矜持を感じます。

もちろん、物質に意志などありません。リチウムの析出形態は、物理法則と電気化学に従って定まります。しかし、必死に枝を伸ばして存在を保とうとするデンドライトに、私は意志を感じずにいられません。もはやサポーターとして感情移入してしまう。頑張れ、頑張れ。負けるな。もっと行け。競馬で、最後の直線から追い込みをかける馬を応援するときの気持ちに近いかもしれません。

デンドライトの形を決める要因は無数にあります。充電の速さも関係するし、温度や電解液の成分によっても変わるし、電極の材質や表面の電子状態にも支配されるでしょう。少しでも条件が変われば、まったく違う形のデンドライトが生まれるのです。実際、同じ条件で実験しても、毎回違う形になってしまいます。再現性を確認するのが本当に難しいんです。私自身、学生時代に何度実験させられたか分かりません。

デンドライトを見つめ続けた先にあったもの

気づけば私は、デンドライトの形を見ただけで生成条件を当てられるようになっていました。枝が太くて短ければ急速充電だったのだろうと分かるし、分岐が多ければ温度が高かったのだろうと推測できる。枝の先端が丸ければ液体の粘り気が強かったのだろうと察しがつく。デンドライトの姿を見れば、デンドライトがどんな人生を歩んできたか分かる。我ながら気持ち悪い技を身につけたものです。

この五年間で何千セルも作りました。食事中もお風呂の中でも、頭の中にはデンドライトがありました。夢の中でもデンドライトを見ました。空を見上げると、雲がデンドライト状に見えてしまいました。今では何を見てもデンドライトに見えます。もはや病気ですね。デンドライト病患者です、ありがとうございます。

おそらく私が見ていたのは、結晶の形そのものより、形に刻まれた履歴だったのではないでしょうか。

デンドライトの形には生成過程のすべてが記録されています。一本一本の枝に、物質が必死に生き延びようとした痕跡が刻まれているのです。デンドライトの形を読み解くことは、物質が経験した困難の記録を読み解くこと。彼らの苦痛に思いを馳せ、彼らの無念を無駄にせぬよう徹底的に考察します。デンドライトたちがいかなる思いでその形を選んだか考えるのは、観察者として最低限果たすべき使命ではないかと思っていました。

博士課程を修了し、デンドライトの研究から離れました。今は電池開発分野で仕事をしています。

しかし、顕微鏡越しにデンドライトを見た記憶は脳裏に深く刻まれています。あの五年間があったからこそ、今の私がいる。あそこで徹底的に観察し、考える癖をつけたからこそ、博士号を手に入れて社会に羽ばたけた。デンドライトは私にとって研究対象であると同時に、人生の師のような存在でもあります。こう書くとますます変人のようですが、気にしないでください。もう手遅れです。頭の中はデンドライト一色ですから。

デンドライトが私に教えてくれた教訓は、面倒な存在だからこそ、見つめる価値があるということ

世の中には厄介だからという理由で見ないふりをされているものがたくさんあります。面倒だから近づかない。複雑そうだから考えない。理解の糸口が見えないから諦める。でも実は、厄介なものの中にこそ見つめる価値があるのかもしれません。丹念に紐解いていけば、極彩色の宝物が見つかるかもしれないじゃないですか。

いつかまた、顕微鏡越しにデンドライトを見つめる日が来るかもしれません。そのときはきっと、また恋に落ちてしまうのだろうと思います。恋に落ちる覚悟は、もうできています。デンドライトよ、待っていてください。届くはずもない言葉ですが、心の中でいつも呟いています。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

カテゴリー

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次