入社式
2か月間の春休みが終わった。青春のピークを過ぎ、4/1、とうとう会社員になった。人は一生に二度生まれる。今日は会社員としての誕生日。私自身、誕生日に生まれた。二度目の誕生日を一人で祝う。
入社式がある。ズボンとYシャツを身にまとう。ネクタイとベルトを締める。窮屈たること、宇宙服のごとし。ジャケットを羽織る。時計をはめ、革靴を履く。忘れ物がないか確認。7時半ごろ、家を出た。
白い吐息がホワッと漏れ出る。寒い。気温は10度以下。早歩きで体温を上げる。通勤路には、自分と同じ新社会人と思われる姿が。歩き方がぎこちない。左右をキョロキョロ眺めてせわしない。私は27歳のオールドルーキー。それなりに荒波を乗り越えてきた自負がある。こんな自分も、会社員の先輩方からは赤ん坊に見えるのだろう。22歳も27歳も同じようなものか。謙虚に生きたい。博士課程を早期修了したからといって調子に乗らない。教えてもらったものを全て吸収する。スポンジよりもスポンジらしく。
定期券で改札を通る。ホームに立つ。来た電車に乗る。隙間が見えぬほどの満員電車。息ができない。苦しい。肺が押しつぶされそう。自分はいったい何をしているのだろうか。コスプレなのか、喜劇なのか。自分のいる場所が現実のものとは思えない。逃げ出したい。満員電車だなんて、聞いていない。満員電車に無関心であるときは、満員電車に無関心でいられる。だけど、満員電車に無関心でいられる人はいない。(←なに言ってんだ?)
主要駅で大勢降りていく。ほんの少しだけ肩の力が抜けた。リュックに入れておいた本を読む。暗澹たる現実世界から目をそらす。毎日の満員電車を思うと吐き気がする。人混みが嫌い。人の群れが、怖い。そんな自分でも満員電車を乗り慣れるのだろうか。
弊社の最寄り駅で降りる。9時開始の入社式に備えて早歩きで会場へ。駅から式場まで、予想より遠い。まずい。遅刻する。ダッシュに切り替える。8時56分に滑りこんだ。間一髪だった。早速遅れそうになった。今年、弊社には500人近い社員が入ったよう。500人強の同期と弊社のファンタスティックな未来を創っていく。
新人研修
入社式の翌日から新人研修。事務・技術系社員300名が9つのクラスに分かれて講義を受ける。授業とはいえ、そう大層なものではない。会社員として必要な基礎的な素養を、座学とグループワークで培っていく。弊社の売り上げには何も貢献していない。喋っているだけでお金を貰える。やはり、弊社は太っ腹。一日でも早く恩返しをさせてもらいたい。
世界情勢は激動の毎日。トランプさんが日本へ25%の関税を課した。裏では米中貿易戦争が始まった。相変わらずウクライナではドンパチやっている。生成型AIがAGIに達しようとしている。世の中が目まぐるしく変わっていく。
それなのに、自分は何もできない。狭い教室で平和に研修を受けている。焦りは、ある。早く実務経験を積みたい。博士学生として第一線で戦ってきた。新入社員になった途端、最前線から退役させられた。戦の勘が日に日に衰えていく。それを分かっていながら何もできない。地団太の代わりに四股を踏む。この一か月で太ももがムチムチになった。
どれだけ焦っても仕方がない。部署配属されるまでは我慢あるのみ。
弊社への入社を決めたのは自分。弊社が伝統的日本企業なのは分かっていた。ノロノロゆっくり教育していくのは知っていた。それを承知のうえで弊社を選んだ。なら、しばらくは耐え忍ぶしかない。ドクターだからといって特別扱いされると思うな。スペシャルな待遇を受けたければ、己の実力で証明すべし。思考力でもいい。成果物の出来でもいい。最高のクオリティーを見せつける。特別視せざるを得ない、圧倒的存在感を発揮する。
入社してしまえば年齢も学歴も関係ない。全員、横一線でのスタートとなる。学士も博士もタメ口で話す。ラボの中では考えられない光景。私がD2だったころ、B4の後輩の育成を受け持った。彼の世代とタメ口で話すなど考えられない。なめてんのかと言いたくなっただろう。会社では、ラボの常識が通用しない。
学士と博士では積み上げてきたものが違う。卒論をペペッと片付けて入ってきた人たちと、死ぬ寸前まで追い込み、喀血しながら論文を書き連ねてきた自分。ヤツらと同列? そんなの、受け入れられない。だったら何のために頑張ってきたの? 新人研修一週目は、己のプライドを捨てられずにいた。
このままではマズいと悟った。プライドを捨てなきゃ。同期と仲良くならなきゃ。お高くとまっていても良いことは何もない。孤立するだけ。仕事がやりづらくなる。学歴を己のアイデンティティーにするのはいい。周囲との間に壁を築いてはダメ。ちんけなプライドのために博士号を取ったわけじゃない。己の手で世界を変えるために学位を取った。同期は、仲間。世界を動かしていく相棒。仲良くする以外の選択肢はない。プライドを捨てろ。同期に、溶け込め。
最終週、ビジネスコンペが行われた。クラスで5つのグループに分かれ、互いの提案内容を競い合う。プライドを捨てた。グループに溶け込んだ。コミュニケーションが円滑に進んだ。全員でひとつのスライドを作る。クラス内一位を目指して。狙い通り、一位を取れた。グループメンバーから感謝された。”ありがとう”の嵐。嬉しかった。考え方が変わった。
北大生協脱退手続き
先月、大学院を修了し、北大生の資格を喪失した。満員電車に揺られながら、札幌での記憶を無限に反芻する。
辛かった出来事ばかりが思い出される。八年前の今ごろはお金が底を尽きていた。飢えをしのぐため、道端の草を引っこ抜いて食べていた。お金が無くて冷蔵庫すら買えなかった。ケチりすぎて、付き合っていた彼女からフラれた。鮮烈な光を放つ思い出もある。頑張った末に結果を出せたもの。英検準一級合格。二度の100kmマラソン完走。海外のビッグジャーナルアクセプト。学振DC1内定。フルマラソン2時間42分。そして、博士課程早期修了。
大学時代の自分を肯定できる未来はもっと後だと思っていた。大学入試の結果を受け入れるのに六年もかかった自分だから。
まさか、修了翌月には肯定できているとは考えてもみなかった。自分は十分頑張った。これ以上のキャンパスライフは無理だ。精一杯やってこの結果だから。これでヨシとしなければならない。何でもかんでも手にできるわけではない。何かを得たければ、何かを切り捨てる覚悟がいる。金銭的充実感は得られなかった。精神的な満足度は100%。なら、いいじゃないか。自己満足で結構。コケコッコー。
会社から帰って学位記を眺める。『博士(工学)』と記された紙を見て、ふと涙腺が緩みそうになる。博士号をもらった学位授与式の感動が蘇った。ゾワッとするほどの充足感。あの日、あの場所で、あの学位を受け取るために頑張ってきた。努力が報われた。嬉しくて息ができなくなった。これからの人生であれ以上の感動は訪れるのだろうか。子供ができたら嬉しいのだろうな。まずは彼女か。非現実的すぎて鼻息が漏れる。
週末、家の不要な書類を捨てた。掘り出し物として生協加入証が見つかった。そういえば、まだ生協を脱退していない。入学したとき支払った組合費二万円を預けたまま。生協離脱の手続きを進めた。三週間後、口座に組合費が返ってきた。北大との縁がまた一つ切れた。手元に残っているのは、思い出と学生証のみ。
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