北大博士課程を一年短縮修了した技術開発エンジニアかめです。
AIの進化が止まりません。テキストの生成に始まり、画像や動画の制作、プログラムの自動記述、さらにはロボットとして実世界への進出まで、その成長スピードは私たちの予想をはるかに超えています。かつて「人間にしかできない」とされていたことが、次々とAIに置き換えられてきました。これは決して空想ではありません。現実社会で、すでに起き始めている事実です。
AI時代において、果たして博士号はどれほどの価値を持ちうるのでしょうか。私自身、北大の博士課程を一年短縮で修了し、相応の苦労の末に博士号を取得しました。
この記事では、AI時代における博士号の価値について、私の実体験を交えながら考察していきます。D進の検討を加速している人や博士課程在籍中の方にピッタリな内容です。ぜひ最後までお読みください。
かめそれでは早速始めましょう
知識量も思考力もAIには敵わない
皆さんは生成AIユーザーですか? おそらく大半はユーザーさんでしょう。
皆さんはAIの汎用性を熟知しているかと存じます。AIを情報収集に使う人も居るでしょう。論文の英語翻訳に使う人も居るかな。人には言えない、進路や将来の悩みごとについて、そっとAIに打ち明けている人だって居るかもしれません。AIを使わない日はないのではないでしょうか。私自身、院生時代はChatGPTにアクセスしない日はありませんでした。
AIは、登場直後と比較して、明らかに賢くなっています。応答の質が別次元にまで高まったのです。知りたいことへ的確に答えてくれる。出した指示の真意を理解し、きめ細やかな対応をしてくれる。あたかも人間と接しているよう。人間よりも人間味のある応答をしてくれる場面すらある。そうかと思えば、キレのある、知性を感じるレスポンスもできる。果たして彼らは何重人格なのでしょうか。IQやEQは、常人の域を超えています。
院生時代はもちろん、会社員になった今も日常的にAIを使っています。つくづく思いますね。「コイツには敵わないわ」と。知識量では絶対に勝てません。彼らは地球上の全知的領域における広範な知識を有しています。自分の専門分野でさえ、AIの方が幅広く、しかも深く理解していると感じることが多くなりました。仮説の質も高い。ロジックの組み立ても見事。AIの前には白旗を掲げざるを得ません。競っても無駄。AIには敵いません。
AIを使っていくにつれ、蜃気楼に包まれたような気持ちになります。自分がAIを使っているのか。はたまた、AIが自分を操っているのか。どちらが主人で、どちらがしもべか。人間は本当に操縦士なのでしょうか。いつまで操縦士でいられるのでしょうか。AIの力は加速度的に高まっています。そのうち世界をAIが支配する時代が訪れるかもしれません。
AIが専門性を陳腐化する時代へ
AIが賢くなればなるほど困る人がいます。それは、他でもない、我々若年層です。
AIが人間の能力を代替できるようになればどうなるか。企業は、人間を雇う必要がなくなります。仕事をしてくれる人が不要になるのです。高い人件費を払ってゼロから教育するのは手間。そんなことをするぐらいだったら、巨大IT企業へ月3万円払って最新型AIを使った方が安く済む。それに、楽です。
AIの進化は「雇用喪失」を意味します。AIが強くなればなるほど職がなくなっていくのです。もちろん、新たな職も生まれはするでしょう。しかし、そんな職へ就くには高い専門性が必要です。おそらく新卒には務まらぬレベルの相当な専門性が。ゼロから育ててくれる人もいません。実力が無い以上、就職はかないません。新卒に務まる仕事の数は減っていくでしょう。就職氷河期が、すぐ目の前に迫っています。
博士課程へ進学する人の中には、就職後の高い報酬を期待してD進した方もいらっしゃるでしょう。専門性を活かしてスペシャリストとして活躍してやろう。希少性でもって高い給与をいただこう。残念ながら、我々博士人材もAIの進化の影響からは免れられません。我々が懸命に培ってきた専門性をAIが一瞬で陳腐化させる懸念があります。
たとえばChatGPTやGeminiには、Deep Researchという機能があります。AIが世界中の論文やWeb情報を自動で読み込み、深い考察を伴った文章を即座に生成するというものです。私は博士論文のイントロダクションを3か月かけて書き上げました。しかし今では、それに相当する文書をAIが10分で出力できてしまいます。あの努力はいったい何だったのでしょうか。もはや虚しささえ覚えます。
AIは24時間対応してくれます。「面倒臭い」「疲れているから後にして」といった文句を吐かず、従順に応対してくれる。難しい概念もすぐ理解してくれる。「分かりやすい言葉で解説してくれ」と指示すれば、サルでも分かるように咀嚼して解説してくれる。専門的な深い議論さえお茶の子さいさい。彼らに限界はありません。どれだけ無茶苦茶なボールを投げつけても、受け止め、倍速で投げ返してくるでしょう。
AIの前では「専門性」という言葉が空虚に感じます。人間が培える専門性など、AIの前では所詮、常識に過ぎないのです。
研究が好きで好きで仕方がない人だけ行くべき
博士課程は研究者養成機関。研究者とは、高い専門性を活かして、この世界へ新たな「知」を産み出す人たちのこと。専門性はAIに陳腐化されうると述べました。研究者も他人事ではありません。ウカウカしていられませんよ。AIのせいで専門性という座布団の上にあぐらをかいていられなくなりました。専門性に加え、何かしらの強みが必要な時代になったのです。
研究者という職業は、すぐにはなくならないでしょう。社会を前進させるうえで、人間による創造性や直観が不可欠であることも確かです。しかし、研究の大部分は、今後AIが担っていきます。文献収集、データ解析、仮説の構築、論理の検証。どれをとってもAIの方が正確かつ高速です。
そのような時代において博士課程へ進むというのは、効率ではなく情熱に価値を見出す行為だといえるかもしれません。AIの方が優れていると分かっていても、研究が好きでたまらない。研究をしている時間こそが、何よりも幸福である。そう思える方にこそ、博士課程への道は開かれているのではないでしょうか。
人生の幸福を決めるのは、収入や肩書きではありません。他人と比較することでもありません。自分が自分の人生に満足できるかどうかが最も大切な指標です。
研究が好きならば、研究の道を選べば良いのです。逆に、研究にそこまでの情熱を感じないのであれば、別の道を探すのもまた一興でしょう。AIがどれだけ進化しても、人間にしか持ち得ないものがあります。それは「好き」という感情であり、「熱中できる何か」です。最後に笑顔になれる道を、自分で選んで歩んでいく。それこそが、AI時代を生きる私たちに残された、そして最も人間らしい最後の自由なのかもしれません。



















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