広島生活春夏秋冬vol.9 一年目・10月前編|例のあの人、広島に現る──街で一番の美魔女と乗馬ライフ

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平日サッカー観戦

博士課程に在籍していたころ、遊ぶのがとにかく苦手だった。ひょっとしたら修士課程の頃からか。いや、研究室に入った学部四年次には、すでに遊び下手だったのかもしれない。

いつも何かに追われている気がした。講義、実験、論文、学位審査、学会発表。息つく暇もない。

学生の本分は学業である。部活でも恋愛でも路上ゲロでもなく、当然、育毛でも植毛でもなく。私は真面目すぎるがあまり、本分を全うしなければならぬと思っていた。手を抜くということを知らなかった。当然、メンタルへ尋常ならざる負担がかかる。修士の間はまだ良かった。博士課程に入った直後から、絶え間ない希死念慮に憑りつかれた。

趣味とは、仕事と睡眠のすき間に申し訳程度で興じるものだった。朝4時半に起きてランニング。戻ってきたら、ちゃんと服を着て大学へ。ディスプレイの前でカタカタとミスタイピング。論文を読みながら、玄米おにぎりを片手に、むしゃむしゃ食べながらスクワットランチ。家に帰ってきたら、食事をしながら本を読み始める。そのまま寝るまでずっと読書に耽る。

学生時代を思い返してみても、羽を伸ばして遊んだ記憶がない。遊ぶのはいけないことだ。遊んだら仕事が進まなくなる。こう考え、遊びたい気持ちを律していた。自分で自分の首を絞める、徹底したドМプレイヤー。しまいには遊び方が分からなくなった。見るに見かねた後輩や指導教員から「たまには遊んだらどう?」と言われることがあった。その際、「遊ぶって、なんだったっけ…」と絶句するのがルーティンだった。

ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス」と形容した。ホモ・ルーデンスとは”遊ぶ存在”という意味。人間は遊びによって進化した。人間に遊びは欠かせないのだ。かつての私は遊び方を知らなかった。つまり、私は人間ではなかった。所得税も年金も保険料も納めているのに、人間とはみなしてもらえぬ悲嘆。

博士課程で発症した”遊べない症候群”は、SHUCDEC社員になった現在も未だ健在である。遊ぶとは何かが分からない。取り組むことで気分が晴れるもの? 誰かと一緒にワイワイ騒ぐもの? 汗水たらしてヒーヒー言いながら、自らを徹底的に追い込むこと?

弊社の同期と先輩社員に尋ねてみた。「ねぇねぇ。遊ぶって、何なのでしょう」と。病院に連れて行かれなくてよかった。皆、心優しい方々である。怪訝な面もちを浮かべなかがらも、各々、遊びの定義を教えてくれた。

同期A「遊びとは、自らのうっ憤を晴らすものである」
先輩B「遊びとは、日々に抑揚をもたらすものである」
大先輩C「遊びとは、嫁に隠れて大散財することである。たとえば車とか」

どうやら私は思い違いをしていたらしい。うっ憤は、内側にため込むものではなく、発散して良いらしい。我慢が美徳だと教えられてきた。皆、それぞれの形で容赦なく爆発させているみたい。また、日々に抑揚があっていいという意見も新鮮だった。日々は単調なものだと思っていた。自らのアクションで抑揚をつけていい。跳躍もスタッカートも作っていい。

こう考えると、遊びとはなんて素晴らしいものなのだろうかと思えてきた。遊びがあるおかげで日々にハリが出る。当然、コシも出るし、四股も踏むし、ファンデーションだって乗るだろう。遊びを我慢してきた自分を張り倒したい。日々に潤いをもたらす行為をなぜ敬遠してきたのか。日常が灰色であることをなぜ善しとしてきたのか。修行僧ぶって、ひとりで悦に浸りたかったのか。そんなことやったって、誰も褒めてくれやしないのに。

8月下旬、弊社の夏季休業明けから、自身を遊びの場へ積極的に投じようと決意した。遊びたくなくても遊ばせる。遊びすぎて頭がおかしくなるほど遊んでやる。

手始めに取り組んだのが、乗馬。むかし習っていた乗馬を、むかし通っていた乗馬クラブで再スタート。乗馬再開は、Uターン就職した最大の理由だった。北海道で遊ぶのがすっかり苦手になっていた私は、半年も乗馬をリスタートせずにいた。今のままではいけないと思っている。だからこそ、今のままではいけないと思った。自分の尻にムチを打って、強制的に乗馬クラブへ向かわせた。

やはり、乗馬は楽しかった。馬の背へ十年ぶりにまたがっても、昔のようにすぐ乗れるようになった。馬上では心が躍動している。弊社でぽんぽこりんの業務をしているときには感じられないワクワク感がある。遊ぶって、こういうことなのかもしれない。遊ぶって、楽しいな。遊ぶって、いいな。

ご想像の通り、乗馬をするにはお金がかかる。乗馬再開に伴い、毎月1.6万円もの追加出費が発生する。お金に見合った価値があると感じ、これから毎週乗馬クラブへ通うことにした。

私は既にサッカー観戦という趣味を持つ。偉大なる紫・サンフレッチェ広島のサポーターズシート年間パスを購入し、試合のある日はゴール裏で選手に大声援を送っている。最初は遊びのつもりだったが、いつしか仕事のようになった。声を出し、飛び跳ね、手を叩く仕事。チームの勝敗と気分が同期する。正直、あまり心から楽しめてはいない。

これに関しても、今のままではいけないと思っている。だからこそ、検討に検討を重ね、アクセル全開で検討を加速し、ハンドルを面舵一杯して側溝にハマりながら、楽しむすべを吟味・珍味した。

サッカー観戦を楽しむにはどうすればいいか。検討の結果、二つの施策を着想した。

①サポーターズシート以外の席から観戦する
サポシでは応援にばかり意識がとられる。視界は大旗で遮られ、ジャンプによる体力消耗がえげつない。ピッチで選手がどのようなサッカーを繰り広げているか、真剣に眺める余裕はない。正直、自分が何をやりに来ているのかよく分からなくなる。たまには違う角度から観てもいい。サッカーを”座って”見るのも悪くない。たとえば、そうだな… バックスタンド側指定席から、なんてどうだ。ここならサッカー観戦に集中できる。

②平日ナイター観戦する
弊社からスタジアムに直行する。リュックサックにユニフォームとタオルマフラーを忍ばせて通勤し、定時のゴングを合図にPCを閉じ、猛ダッシュでスタジアムへ駆けつける。残業する諸先輩方を尻目に退場する背徳感はラーメン二郎レベル。「お前も残れ…」との怨念が聞こえてきそうだが、いったんは耳をふさぐことにする。定時に帰って、何が悪い。ていうか、先輩方も一緒にサッカーを観に行きましょう。

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今月初旬、計画を早速実行に移した。善は急げ。いわんや悪をや。

火曜夜、サンフレッチェのアジアチャンピオンズリーグを観に行った。相手は上海のチーム。

相手は、半数以上の選手が非自国民。彼らは、いったい何を食べたらそんなにデカくなるのかというほど体が大きかった。ユニフォームがはちきれそうになっていた。首と肩回りがずいぶんと窮屈そう。体格は、弊社自慢の相撲部とどっこいどっこい、うんとこどっこいしょではなかろうか。

今回はバックスタンドから座って観戦した。普段立っているサポーターズシートを眺めながらの観戦となる。応援席を客観的に眺めてみる。90分ずっと声を出していてすごいなと思った。しかも、飛び跳ねながら声を出している。自分があそこに居るときは、当然のように彼らと同じことをやっている。自分にあんなことができるだなんて到底思えないが、あそこに立てば、当たり前のようにこなせてしまう。

この試合は父と隣同士の席で観戦した。父は私と同じく、会社でぽんぽこりんの業務をこなした後、大急ぎでスタジアムまで駆けつけたらしい。父と一緒に観ながら、あーでもない、こーでもないと、選手の動きを論評していく。そうだよな、これがサッカー観戦だよな。いつもは騒ぎ散らしているだけなんだよな。久々にサッカーをちゃんと見た気がする。サッカーって、面白いな。たまにはこうやってじっくり眺める日もあっていい。

試合は1-1で引き分けた。前半19分に先制するも、後半終了直前に追いつかれ、ゲームセット。選手を声で後押しできないもどかしさがあった。次回の観戦はゴール裏で。サッカーを見るのはたまにでいい。自分には、12人目の選手として、飛んだり奇声をあげたり頭をかかえたりして一喜一憂するのが性に合っている。

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