博士転職活動記最終回|会社員二年目・8月 宮島の残照

~前作~

博士課程在籍中に留学したイギリスでは徹底した放置プレーを受け、まともに研究できなかったばかりか、人脈を拡げることも叶わなかった。やっとの思いで貯めた数百万円をドブに捨ててしまった。研究者への道も閉ざされたように感じ、留学を途中で切り上げて帰国した。

実は、留学したオックスフォードで、駅のすぐ裏に弊社の店があった。他の日本企業の看板など見かけなかったのに、弊社の看板を、しかも地元企業のロゴを見つけて、こんな辺境でも日本企業が頑張っているんだ、自分も頑張るしかないと勇気をもらった。ヒースロー空港で帰国便に乗る直前、弊社人事部に雇ってくれないかとメールした。

弊社から内定をいただいてから、研究を遮二無二頑張った。D1の一年間ほとんど研究できなかったにもかかわらず、D2で一気に巻き返して、一年飛び級で学位取得した。広島に何としても帰るべく執念をたぎらせ、奇跡を呼びこんだ。

会社では研究に携わりたかった。別に研究職でなくとも良くて、目の前のモノを深掘りできる仕事なら何でも構わなかった。しかし、弊社では量産開発部門に配属され、広い守備範囲を皆で守る広く・浅く系の業務をあてがわれた。博士号を持っていても研究させてもらえないのかとガッカリしていたら、弊社には深掘り型の仕事がないのだと教えられ、マリアナ海溝よりも深く落ち込んだ。

与えられた量産開発の仕事を楽しもうと、深掘り要素を見つけては探究した。最初は掘り下げる余裕があったけれども、徐々に業務量が増え、いつしか仕事を処理して次の人にパスする歯車になった。どういうわけか、時はますます早く流れ、一日一日を呑み込んでいった。今のままではいけないと思っていたが、どうすることもできなかった。

プライベートも散々だった。学生時代からランニングしていたものの、広島に帰って来て早々に右足首靭帯を痛めて走れなくなった。閉塞感脱却のために再開した習い事では余計にストレスをため、3か月で辞めた。恋人でもできれば人生変わるかなとマチアプを始めたところ、カフェめぐり・ディズニー・海外旅行が趣味の女性ばかりで嫌気がさした。

同期たちが先輩と楽しそうに働き、公私ともに充実しているなか、自分は苦しみの底で胸を押さえてのたうち回っていて、なんでこんな辛い思いをしなきゃいけないんだ、もうやってられねえよ、となった。

・・・・・・・

自分自身に期待せず生きていけたら楽だった。不満があっても割り切り、ライフステージを進められなくてもそういうものだと受け入れ、絶え間なく押し寄せる閉塞感を「甘えるな」と一喝できたらどれほど楽だったか。

私には、そんなの、不可能だった。あと何十年も無気力に生きていくだなんて辛すぎる。これまでの積み上げを否定しているようだし、血反吐を吐きながらここまで這ってきた過去の自分に申し訳が立たない。人生の手綱を、もう一度握ってみたい。自分の人生に期待してあげられるのは自分だけなんだから、いつか力尽きるその日まで自分を後押ししてあげたい。

B4で研究室配属されたとき、希望とは異なる研究テーマを任された。会社に入っても、やりたい仕事に携われなかった。ひょっとすると、そういう星のもとに生まれたのかもしれない。そうかもしれないけれども、一度ぐらい、運命に歯向かってみていいんじゃないか。私に十字架を負わせた神さまに「ふざけんなボケ!」と楯突いたっていいのではないか。

弊社に居続けても運気が好転する兆しはない。ならば、転職して広島を離れよう。

自己分析を経て6社に応募し、書類選考でリジェクトされた。我流でやってはマズいと考え、転職エージェントに相談した。仕切り直して5社に応募をかけ、2社は書類でリジェクト、3社はスルスルと選考を突破し、内定した。条件や業務内容をふまえて検討を重ね、素材メーカーX社に入ることに決めた。

実は裏で空港運営会社にもエントリーしていた。小さいころの夢はパイロットで、今でも飛行機を眺めるのが好きである。旅行関連国家資格を持っており、ここらで心機一転、空の仕事に携わるのも面白そうだと考えた。書類選考通過後、Openworkの口コミを見ると、幹部社員が官庁からの天下り人材で、社員の意見を鑑みず施策を打っているらしい。これはアカンわと、自ら不採用を申し出た。

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弊社を辞めたくて転職活動し始めたはずなのに、なかなかX社へ内定承諾を連絡できなかった。弊社の人間関係が心地よすぎて、これ以上の環境はないと思ったのだ。また、地元が好きでUターン就職したにもかかわらず、地元を離れるのは耐えがたかった。

人生の岐路で感情のおもむくまま判断すると必ず失敗する。感情が理性に追いつかない時こそ、冷静かつ無慈悲に決めなければならない。弊社とX社のポジとネガを列挙し、X社に移るべき理由を積み重ね、我が感情を屈服させた。

X社への転職を決めてから、上司に退職報告するまで一週間かかった。上司が忙しすぎて捕まえられなかったのと、言い出す勇気をなかなか振り絞れず、ズルズル時間が経ってしまった。ようやく上司に言えた時はホッとした。

上司から幹部社員に辞意が伝わり、何度か退職面談が組まれた。皆、心底残念がってくれ、「戻ってきたかったらいつでも戻っておいで」と温かい声をかけてくれた。弊社社員の人間性は素晴らしいなと、改めて感じた。

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8月6日、最終出社日に社員証を返却し、有休消化を経て退職した。転職先への入社は10月1日で、二ヶ月もの夏休みに入った。

弊社での日々を思い返してみると、辛い記憶ばかりが蘇ってくる。この会社では研究ができないと知ったときの絶望感や、仕事が遅すぎて他部署から詰められ頭を下げまくった情けない場面が思い浮かんだ。プライベートもズタズタで、楽しかったイベントなんてほとんど思い出せない。

実際、入社二か月目には、もう辞めてしまいたかった。動くなら早ければ早いほどいいと思ったのだ。しかし、見切りをつけるには早すぎる気がして、しばらく食らいついてやろうと腹をくくった。

チームメンバーの支えもあって、不器用なりに仕事を進められるようになった。続けてもいいかなとの想いがチラッとよぎった。とはいえ、無意識に無理を重ねていたようで、精神的に耐えられなくなって転職することにした。

悲しい思い出の多い弊社生活において、いくつか進展もあった。プログラミング初心者だったのが、周囲に頼られるほど自在にプログラム操作できるようになった。電池の化学的挙動をシミュレーションできる大型計算ツールも創り出した。周囲と協力して仕事を進める肌感覚も培えた。それに、モノづくりに対する解像度が高まり、新卒時代とは比べものにならないほど精度高く転職先選びができた。

もし博士課程を飛び級せずD3まで在籍していたらどうだったか。確かに一年長く研究には携われただろう。けれども、海外留学で失敗したのを嘆き、プログラミング技術など養う機会もなく、仕事の幅を広げられず、企業勤めに対する理解度は低いままだった。そのため、一年遅れで弊社に入っていたのではないか。苦しむのが一年先か、一年後かだけだったのかもしれない。

* * * * *

いずれにせよ、私は一年飛び級して弊社に入り、一年半で飛び出した。二度目の広島生活は、我が人生史へ深々と刻印された。過去のプロットを変えられない以上、未来に目を向けて生きていく。弊社に入って正解だったと胸を張って言える人生にしたい。答えが何かも知らず、ガムシャラに進み続けた日々を、力づくで正解にしてみせる。

広島は本当にきれいな街だった。三角州の上に大都市が広がり、どこにだって川を渡ればすぐに行ける。視線を上げれば山が街を囲み、季節ごとに稜線の色が鮮やかに移り変わった。

家から駅まで自転車で駆け、JRに揺られて通勤した。帰り道は、ときどき太田川放水路へ寄り道し、河川敷で瑠璃色の夜空を何十分も眺めていた。仕事でどんな嫌なことがあっても、宇宙スケールで考えれば些細な問題に思えた。

キャリアを重ねて仕事にひと区切りついたら、今度こそココに腰を落ち着けたい。帰ってきた日には、まず太田川の防波堤に座りに行こう。

この街が、大好きだ。
またね、広島。

宮島からこぼれる残照は、ほろ苦く、いつまでも喉に残った。

博士転職活動記、これにて完結。

転職活動を通した学び
・自分の値札は、自分で貼り替えるべし
・地元愛と会社選びは切り離して考えるべし
・広島のお好み焼きは、ぶちうまい

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