10/2 (月) その1:渡航当日
起床

金属のベンチが背に冷えを通し、空調の風が頬を撫でていく。アナウンスの声が夜の薄膜を裂き、目を閉じても遠くで靴音が絶えない。羽田空港の夜は呼吸していた。人の流れが止まっても、この場所だけは目を閉じることを知らない。
眠りは訪れなかった。私は場の律動に身を預け、漂うように時をやり過ごした。
三時を少し過ぎ、諦めて体を起こした。夜明け前の倦怠はどこか懐かしい。大学の実験棟で迎えた朝を思い出す。
歯を磨き、顔を洗い、荷を点検する。盗まれたものも、失われたものもない。独りごとのように「大丈夫だ」とつぶやく。薄闇の中で、自分の声がまるで他人の声のように聞こえた。


出発ロビーに上がると、掲示板の黄色い文字が目を射た。
――DELAYED
出発は一時間遅れらしい。肩の力が抜け、自然と笑いがこぼれる。予定どおりに運ぶ旅など最初から存在しないのだろう。旅は、思惑の外側にこそ始まりを持つ。静まり返った空港の片隅で、私はひとり朝を待った。


展望デッキに戻り、パソコンを開いてキーボードを打った。
滑走路の向こうでは整備車のライトが淡く瞬き、エンジン音が地を震わせる。金属の巨体が目を覚まし、機械の群れが朝の準備を始めていた。気づけば夜が白み、東から東京へ光が流れ込んできた。机に置いた指先がその光を吸い込むように淡く輝く。眠気よりも、心の奥の火が先に目を覚ました。
出国手続きから出国審査まで

六時半、ブリティッシュ・エアウェイズのカウンターはすでに人で満ちていた。長い列の中で、誰もが沈黙のまま順番を待つ。言葉よりも、心の奥でそれぞれの物語を抱えている。


四十分ほどしてようやく窓口が見えた。手の中のパスポートは掌の熱で湿り、指に張り付いている。差し出すと、係員が機械的な笑みを返し、搭乗券を滑らせて寄こした。薄い紙切れ一枚で、過去と未来が分断される。手にした瞬間、もう戻る場所は後ろにはなかった。

保安検査へ進む。列の流れは絶え間なく続き、金属探知機の音が途切れない。ベルトを外し、靴を脱ぎ、身体を透かされる。あの一瞬、皮膚の下まで覗かれた心地がした。出国手続きの儀式も、今は機械が行う。パスポートをガラスの盤に置くだけで、自動扉が静かに開き、電子音が「行ってらっしゃい」と告げる。
国境とは、思っていたより脆く、かすかな境目なのだと悟る。

ゲートを抜けたとき、空気が変わった。周囲の言葉が英語に置き換わり、看板の文字も知らない語彙で埋め尽くされている。
奇妙なことに、不安よりも安らぎがあった。耳が拾う英語の響きが、遠い記憶の心音のように胸の奥に届く。思っていたより聞き取れる、と思いながら、口の端が自然に上がった。まだ旅は始まったばかりだというのに、心のどこかで「ただいま」と呟いていた。
BA08便に搭乗


BA08便、ヒースロー行き。搭乗口は149番ゲート。ターミナルの果てまで歩く。ゲートに向かう道すがら、胸が早鐘を打っていた。
搭乗口の前にはすでに人の波ができていた。アナウンスが英語と日本語を交互に告げ、旅人たちの視線が一斉にゲートへ吸い寄せられる。八割ほどは外国人。黒髪の頭が見えるたびに、自分がまだ「日本の側」にいることを確かめる。パイロットが現れ、乗務員が続いた。彼らの多くは男性で、肩幅の広い制服が体にぴたりと馴染み、無駄のない動きがそのまま国の品格を示していた。ああ、こういう空気がイギリスという国を形づくっているのだろう。そんな思いが胸をよぎる。



九時二十五分。ファースト、ビジネス、プレミアムエコノミーと続き、ようやくエコノミーの搭乗が始まった。人の列が少しずつ進み、搭乗券を持った乗客が次々に吸い込まれていく。ゲートを通るとき、背中の後ろでドアが閉まる音がした。振り向くことはない。もう、覚悟は固めていた。
ボーディングブリッジを抜けて機内へ。狭い通路の奥から低く響くエンジンのうなりが伝わってくる。
窓際の席に腰を下ろすと、すぐ、隣に大きな男性が座った。たちまち右側の肘掛けを奪われた。領土戦争に打ち勝つのは不可能と悟り、「まあ、いい」と小声で呟いて目をつむる。
この密閉空間が、今日から十五時間の世界になる。
定刻通りに機体が動き始める。
滑走路までの長いタキシング。窓の外では整備士たちがオレンジ色の光を振っている。その小さな灯が、見慣れた日本の最後の景色になった。

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