企業に入ると、修士卒と博士卒は「院卒」で一括りにされる

目次

ひと口に「院卒」と言うけれども

北大博士課程を一年短縮修了し、地元の大企業へUターン就職しました。入社後、同期社員や先輩が、大学院を修了した人間を一括りに「院卒」と表現しているのに気が付き、モヤモヤしています。

大学院にはふたつの課程があります。前半が修士課程、後半が博士後期課程(博士課程)と呼ばれるものです。

修士課程は通常二年間。学会発表が修了要件となっていることが多いですね。日本の修士課程は、実質、ほとんど全員が修了して学位を得られます。学士から修士に上がる際、”周りが大学院に行くから自分も…”と深く考えずに進学した方も多いでしょう。かつての私もそうでした。進学した方が就職に有利らしいし、行っておいて損はないかなと思って。

それに対し、博士課程は修士プラス三年間あります。修了要件として、ジャーナルでの論文出版が掲げられており、論文を出せない限りは永遠に修了できません。成果を挙げてようやく最終審査会に臨む『権利』が得られます。審査で落ちたら業績がリセットされ、最初からやり直しになってしまうことも。厳しい審査を乗り越えたサバイバーにのみ博士号が授与されるのです。

このように、修士と博士とでは、越えなければならない壁の高さが全然違います。食べ物で喩えるなら 雲丹(ウニ) と ほうれん草 ぐらいは違うのではないでしょうか。両者は全くの別物なのです。

雲丹とほうれん草を一括りに『食べ物』と表現することもできるでしょう。確かにそうです。雲丹もほうれん草も食べられます。しかし、雲丹とホウレンソウは全然違います。雲丹は海で採れる魚介類だし、トゲトゲしているクセに中身はクリーミー。ほうれん草は畑で採れる野菜。苦いですよね。私もあまり好きではありません。

雲丹もほうれん草も食べ物です。でも、この二つをひっくるめて『食べ物』と形容するのは、雲丹に対するリスペクトに欠けます。積丹半島で採れるウニがどれだけ美味しいと思っているのですか。一度、北海道の回転寿司屋で食べてみてください。トリトンがオススメです。トリトンで積丹雲丹を食べた瞬間、もうほうれん草だけでは満足できない身体になっているはずです。

話がだいぶ脱線してしまいましたが、修士と博士の話も同じです。ひと口に「院卒」とおっしゃいますけれども、修士と博士とでは別物なのです。

修士の方々は、畑で丁寧に育てられたほうれん草のように、品質が安定しています。どのような料理(業務)にも合わせやすく、栄養価(基礎能力)も高い。組織として使い勝手の良い、非常に優秀な「規格品」です。

その点、博士は違います。荒波に揉まれて育った天然の雲丹です。一つひとつ形も違えば、中身の詰まり具合も違う。しかし、その殻の中には、規格化された教育だけでは決して生まれない、濃厚な旨味が凝縮されています。研究の深海で、答えのない問いと格闘し続けた者だけが獲得できる、独自の思考力や執念を有している。扱い方次第で料理(組織)の味を劇的に変える可能性を秘めた「一点物」なのです。

このように、修士と博士とでは生物としての特質が大きく異なっています。博士人材の雲丹たる私としては、ほうれん草の修士たちと同じ扱いをされたくないというのが正直なところです。修士までは遊園地でしょうが、博士は毎日が修羅場なのですから。

博士の価値を認知してもらえるよう、我々が頑張らなきゃいけない

社会に修士と博士を同じ扱いにされるのは、博士側にも原因があると考えます。今のままではいけないと思っています。だからこそ、今のままではいけないと思っている。

博士人材の我々は、いつまでも雲丹の殻に閉じこもっていてはいけません。あのトゲトゲしたシェルターから這い出して、大海原へと漕ぎ出す必要があります。世間に博士人材の価値を知らしめるのです。トゲトゲしているように見えるけれども、中身は絶品なんですよと自ら訴える必要がある。分かってもらえなければ、分かってもらえるまで訴える。働きぶりで訴えるのも良いでしょう。雲丹を鼻先にぶら下げて誘惑するのも効果的かもしれません。

自分が就職した会社には500人ほどの新入社員が居ます。そのうち、博士号を持って入社したのは、消費税率よりも格段に少ない 3名 に過ぎませんでした。ただでさえマイノリティーのため存在が希薄化されてしまううえ、会社の制度が修士前提で作られている以上、我々もそれに従わざるを得ないのです。

初任給を見ても、修士修了者と博士修了者で大差はありません。三年間多く研究に打ち込んでも給与には反映されない。これって、雲丹とほうれん草が同じ値段で売られているようなものですよ。スーパーの特売コーナーなら分かりますが、人材市場でこれは何かがおかしい。築地市場なら大暴動が起こります。

研修でも「院卒の皆さん」とひとまとめにされます。修士も博士も区別されず、同じプログラムを受けさせられる。配属面談でも「院卒枠での採用なので」と言われ、博士であることは特に考慮されません。履歴書には「博士(工学)」と書いたはずなのですが、人事の方々には「院卒」としか認識されていないようです。

わざわざ「私、博士なんですけど」と主張するのも虚しい話。自分から「雲丹ですよ、ほうれん草じゃないですよ」と言って回っているようで、気持ちが悪いです。それに、そんなことを言ったら「博士様は偉いんですね」と嫌味を言われるかもしれません。かといって、黙っていれば修士と同じ扱いのまま。この状況、どうすれば良いのでしょうか。

結局のところ、働きぶりで示すしかないのだと思います。博士課程で培った思考力、問題解決能力、粘り強さ。それを日々の業務で発揮し、「ああ、博士ってこういう力があるんだな」と周囲に認識してもらう。言葉ではなく、実績で。

理屈では分かっています。博士が少数派である以上、制度が修士ベースになるのは仕方ない。博士の価値を認めてもらうには、我々が結果を出すしかない。

やっぱりモヤモヤする

でも、やっぱりモヤモヤするんですよ。「院卒」という言葉を聞くたびに。

雲丹とほうれん草は違います。どちらも食べ物ですが、全く別物です。同じように、修士と博士も違います。どちらも大学院修了者ですが、辿ってきた道のりは全く異なります。その違いを認識してもらえないのは、悔しいというか、寂しいというか、一回北海道のトリトンに行ってほしいというか。三年間、必死に研究に打ち込んできたのは何だったのかと、ふとした瞬間に思ってしまいます。

もちろん、博士課程で得たものは大きいです。研究の面白さ、知的好奇心を追求する喜び、困難を乗り越えた達成感、などなど。それらには給料や肩書きでは測れないプライスレスな価値があります。しかし、社会に出て修士と同じ「院卒」として扱われるのは釈然としませんね。愚痴っぽくなってしまいましたが、これが正直な気持ちです。

博士人材がもっと評価される社会になってほしい。修士と博士の違いが認識され、それぞれの価値が正当に評価される社会に。雲丹は雲丹として、ほうれん草はほうれん草として、適切に扱われる社会に。そのためには、我々博士人材が頑張るしかありません。文句を言うだけでなく、行動で示す。結果を出す。「博士を採用して良かった」と思ってもらえるような働きをする。簡単なことではありません。でも、やるしかないんですよ。頑張るしかない。

今日も会社で「院卒の皆さん」と呼ばれるでしょう。その度に小さくモヤモヤするかもしれません。ですが、そこで腐ってしまっては、ただの鮮度の落ちた雲丹です。

我々がやるべきことは一つ。圧倒的な「味」で分からせることです。院卒の枠組みには到底収まりきらない成果を、常日頃から出し続ける。周囲がこの人を『院卒』と呼ぶのは失礼だと認めざるを得なくなるまで、濃厚なクリーミーさを見せつける。言葉で説明する必要はありません。一緒に働き、ひとくち食べてもらえれば分かります。一度その味を知れば、もうほうれん草だけの食卓には戻れないはずですから。

トゲトゲの殻を武器に、今日も荒波を泳ぎ切ってみせましょう。トリトンの積丹雲丹がそうであるように、博士人材の我々もまた、唯一無二の価値で勝負し続けるのみです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

カテゴリー

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次