アカデミアの魅力のひとつは、仕事の成果を個人の名前で対外的に宣伝できること。学術論文には著者として自身の名が。プレスリリースのPDFや新聞記事にも氏名が載るでしょう。対外的に目立てば、研究業界内での影響力が増大し、研究ポジションを得たり研究予算獲得で有利になったりする可能性も。
研究者にとって知名度は生命線。自身の名前をなるべく多くの人に知ってもらおえれば、のちのち有利になります。
アカデミアから企業へ移籍すると、事態は大きく変わります。企業の成果で前面に押し出されるのは、企業の名前。研究や開発で成果を残しても、なかなか自分の名前では成果発表できません。氏名を載せられるのは特許ぐらいでしょう。企業就職を選ぶ限り、成果を個人の名で公表するのを半ば諦めなければなりません。
私が博士課程へ進学した理由のひとつは、「自分の成果を己の名前で世に知らしめたいから」といったもの。この世に生きた証を残したい。そのためには、成果に氏名を載せられる場所へ身を置くのが最適だ、と考えたのです。
アカデミアに居るうちはいいでしょう。企業へ行けば個人性を失わなければなりません。私が博士修了後に選んだ進路は『企業就職』。今のところ、これまで挙げてきた成果を対外的に発信したことはありません。発信する機会も限られているでしょう。
それでは、私は一体どのようにして自身へ個人性の喪失を受け入れさせたのでしょうか。
この記事では、博士課程から企業就職するとき、個人の名で成果発表できなくなる点に関して考えたことを記します。進路の検討を加速中の博士学生さん、個人性の喪失についてお考えのアカデミア研究員さんにピッタリな内容です。ぜひ最後までご覧ください。
かめそれでは早速始めましょう!
名を捨てて実を得るのが企業


イントロでお話しした通り、企業へ行けば、仕事の成果は会社の名前で公表されます。個人の名前が記されるのは、技報と、特許用紙と、業界を激震させるほど高インパクトな成果が出たときぐらいです。
企業では研究者が歯車として扱われます。会社の業務を滞りなく進める知的従業員の一人とみなされるのです。
企業で研究人材に求められるのは個人性ではありません。個人性など不要。むしろ、そのようなものはお荷物。ワガママを言わず、会社の方針に首肯し、優れた思考回路を活用して会社へ価値を与えられる人材が求められています。
このように記すと、会社で働く気が失せてきた博士学生さんも多いのではないでしょうか。



博士課程まで行ったのに歯車かよ…



やっぱ、アカデミアの方が良いんじゃないかしら…
もちろん、企業にも魅力はあります。個人性喪失を代償に、金銭的報酬で報われるのです。
自身が挙げた研究成果が会社の利益に繋がれば、ボーナスが増えるでしょう。仕事のできるヤツと認定され、昇進速度が高まるかもしれません。
金銭的報酬以外にもあります。自身の力で企業を介して社会貢献できるのです。自分が懸命に働いて作った製品が人々の暮らしを豊かにしてくれるでしょう。
名を捨てて実を得る。これが企業研究者の生き方なのです。
名も実も捨てるのがアカデミア


翻って、アカデミアはどうでしょうか。企業が「名を捨てて実を得る」なら、その逆の「実を捨てて名を得る」でしょうか。
半分正解、半分不正解です。
実を捨てて名を得られるのは大学教員のみ。博士学生やポスドク研究員は、名も実も得られないでしょう。



ウソっ!? だってオレ、ファーストオーサーの論文をいっぱい出しているよ!?



論文も受賞歴も業績にならないの!?
ネコさんたちも動揺しておられます。詳しく説明していきましょう。
確かに、学術論文の著者名には学生やポスドクの名前が載せられます。筆者も実験者も学生なら、論文の筆頭著者は学生です。
しかし、博士課程で学生が出した研究成果は、基本的に指導教員へ帰属するのです。どれだけ素晴らしい成果を挙げても「指導教員の素晴らしい指導のたまもの」とみなされます。学生はどこまでいっても半人前扱い。博士号を取るまでの間、一人前とはみなしてもらえない。これは日本だけに限った話ではありません。世界中の博士界隈に通じる話です。
では、博士号を取ったら一人前扱いしてもらえるのか。研究成果を自身の名前で宣伝できるようになるのか。
残念ながら、まだそうはなりません。ポスドクの扱いは、0.75人前。ポスドク時代に出した研究成果は、一部、研究指導してくれる先生のモノになるでしょう。おまけにポスドクの給与はそう多くはありません。いわんや、博士学生をや、ですね。つまり、博士学生やポスドクは、名も実も得られないのです。
助教の間も教授の支配下。成果が自己に帰属し始めるのは、准教授に昇進したときです。
准教授まで成りあがってようやく「名」を得られるステージに立てます。しかし、大学教員へ「実」は付いてきません。
確かに、大学教員の年収は高いんですよ。先生方は年収一千万円近くいただいておられます。しかし、業務量に対する報酬額があまりに少ない。毎日朝から晩まで働きづめ。土日返上で働いておられる。そんなに働いているのに年収一千万円”しか”貰えません。
哀しいかな、大半のアカデミア志望者は准教授まで昇進できません。名も実も捨てるのがアカデミア。この世界では、研究のやり甲斐を食べていくしかないでしょう。
『実』さえ得られればいいかなと思った


企業とアカデミアの「名」と「実」について記してきました。それでは最後に、私が企業就職を検討する際、成果の個人性について思ったことを記します。
いきなり身もフタもないことを記しますね。『名』だけ得られても食っていけません。この世界で生きていくには『実』が必要です。
「実」とは、お金。お金は、力。お金があれば何でもできます。お金がなければ何もできません。
私はB1の4月からD2の8月まで、一人暮らしの自室に冷蔵庫がありませんでした。洗濯機に至っては、結局、最後まで買わずに済ませのです。情けないことに、お金がなくて手に入れられませんでした。あまりの貧乏生活に愛想を尽かされたのか、せっかくできた可愛い彼女にもフラれてどこかへ行かれてしまった。
生活に苦しみ、恋愛もうまくいかなかった経験から、大学院修了後は『銭稼ぎ』を第一に志向するようになりました。
D進前の自分は功名心にあふれていました。「実」など知るか。「名」の方が大事だ。出世して、素敵なパートナーを見つけて、幸せな家庭を作れたら十分だ、と。
過去の私には大きな見落としがあったようです。この世界は、最低限のお金がなければ、幸せになれないようにできているということを。
お金のない男に女性は寄りつきません。自己投資もできず、能力を高められず、会社で出征するのも難しいでしょう。我々は「名」を取る前に「実」を取らねばなりません。「実」を得て、生活基盤を整え、それでようやく「名」を追い求める態勢が整います。
迷った時は前提から疑ってみましょう。そもそも「名」など必要なのでしょうか。誰かに褒めてもらうために「名」を追い求めていないだろうか。
「名」など、持っていても、何の価値もありません。今は戦国時代ではありません。名誉もへったくれもない令和時代です。名誉心は、行動の足かせになります。中途半端なプライドは目を曇らせ、本質を見抜く力を損なうでしょう。
「名」なんて、本当にいるのかな。見栄などさっさと捨て去っ他方は、身軽に動き回れて人生楽しそう。
博士課程在籍中に色々考えたすえ、「”実”さえ得られればそれでいいや」と考えるようになりました。
「名」なんて要らない。あったところでどうしようもない。成果を発表するのが個人の名でも企業の名でも構わない。どんな形でも社会の役に立てたらそれでいい。企業へ行ったら報酬をもらえます。頑張ったご褒美としてお金をいただけるのです。
自身の名を地球へ残したとして、他の人に何のメリットもありません。ただ、自分のちっぽけでクソどうでもいい誇りが満たされるにすぎません。
企業就職の利点を考えてみると、どうして自分が個人名での成果発表にこだわっていたのか分からなくなってきました。
肝心のアカデミアですら、准教授以上にならない限り、個人性を獲得できません。准教授って、けっこう上階層ですよ。助教になるだけでも大変です。助教職からもうひとつ階段を昇り、公募で椅子取りゲームに勝ってようやく准教授。准教授到達は35~40歳でしょうか。大変残念ながら、私はアラフォーまで待っていられませんでした。
大企業へ行けば、大学教員よりも多くの報酬をいただけます。
企業では「名」は得られないかもしれません。しかし、企業では、「名」の損失を補って余りあるほどの「実」が手に入ります。どうせ長い時間を費やして働くのなら、何かしら得るものがあったほうが嬉しくないですか?
私にとっては、名も実もないアカデミアよりも、少なくとも「実」だけは間違いなくある企業就職の方が輝いて見えました。






















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