大学院博士課程へ進学した3つの理由

北大と国研で研究している化学系大学院生かめ (D2) です。修士課程修了後、就職やブランクを経ることなく、博士課程への進学を決意しました。この記事では、私が博士課程へ進んだ理由を包み隠さず語っていきます。

本日、27歳の誕生日を迎えました。過去を顧みるちょうど良い機会。博士進学前の心境を思い出し、研究のモチベーションを高めるために文字に残します。

目次

その1:電池という研究対象に魅せられて

私は中学時代から化学の虜でした。化学の授業で「あらゆる化学現象を式で表せる」と知った瞬間、その美しさに心を奪われたのです。物理も同様に知的好奇心を刺激されましたが、力学や波動学には無機質さを感じ、化学ほどの感動は得られませんでした。

高校では、化学の授業だけが特別でした。他の授業を宿題消化の時間に充てる中、化学だけは違いました。教師の話に耳を傾け、教科書を隅から隅まで暗記する。化学だけは内職せず、授業を真面目に聞いて過ごしました。化学のパワーで世に貢献したい—その思いで京都大学農学部を目指しました。残念ながら6点差で不合格。一浪を経て北海道大学総合理系へと進学したのです。

北大での1年目、私は数多くの講義に触れました。正式に履修したのは化学I・IIのみ。他は興味のある講義の後列に座り、自分の適性を見極める時間に充てました。そしてたどり着いたのが「電池」との出会い。電極同士の組み合わせ、電解質との相性。世に普及している電池は、実は絶妙な調和で成り立つ「芸術作品」なのです。凝り性で職人気質な私には、このような作品作りにこそ、自分の天分があるのではないかと確信しました。

研究への思いと野望

専門書の内容を理解するだけではもう満足できません。”自分の手で教科書の「続き」を書き足したい”との野望を抱くように。

研究室での実験を重ねるうちに、「新たな知見を生み出す喜び」という未知の快感を味わってきました。B3までの既存知識を学ぶ段階も楽しかったものの、B4から始まった知識の創造は、まったく次元の違う興奮をもたらしてくれます。「この楽しい時間をもっと長く。B4からM2までの3年間じゃ、全然足りない」—その思いが、博士進学の決断を後押ししました。企業の研究職でも似たような経験はできるでしょう。しかし就活を通じて痛感したのは、大学研究の圧倒的な自由度です。自分ではなく会社のために全力を注げるか、正直な懸念もあります。だから博士課程で研究を存分に楽しみ、その後の進路はD2かD3になってから考えることにしました。

これまで電池と5年間向き合ってきて、研究を進めれば進めるほど新たな疑問が生まれ、「ああ、自分はまだまだ何も知らないんだな」と、日々気づかされます。博士課程では、今まで以上に電池との対話を深め、博士号取得時には、今より少しでも電池の魅力や面白さを語れる研究者になりたいと考えていました。

博士課程での目標の一つは、世界一になることです。どれだけニッチな分野でも構いません。「この領域なら自分が世界一詳しい」と胸を張って言える分野を、自分の手で切り開きたいのです。中学時代、馬術競技で国体優勝した経験があります。しかし、そこからジュニアオリンピック、ワールドカップ、オリンピックへの道は届きませんでした。たった一度きりの日本一。世界への挑戦なんて夢のまた夢だった。乗馬で挫折して味わった悔しさを研究へぶつけて昇華させてやりたいのです。

基礎研究で日本に貢献を

私は博士課程で次世代型蓄電池の基礎研究に挑みます。この研究が電池業界にどう役立つのか、正直まだ見通せません。成果が役立つのは20年後かもしれません。ひょっとしたら私の死後に花開くかもしれない。応用研究のような明確な実用化の道筋は描けません。未来の産業の種を蒔く基礎研究こそ、今の日本に必要だと信じています。

“すぐに役立つこと”を追い求めるあまり、日本では基礎研究が軽視される傾向にあります。このままでは日本の技術力は確実に衰退する。だから私は人柱となって、必死で基礎研究に打ち込もうと決意しました。強固な基礎がなければ、その上に応用は築けません。電池産業まで中国やアメリカに先を越されては、日本の未来が危うくなる。日本を心から愛する者として、母国の電池産業の発展に貢献したい。次世代蓄電池開発に必要な知見を生み出したい この思いを胸に死に物狂いで研究に打ち込み、次の世代へバトンを繋ぎたいと考えていました。

その2:海外留学で自分の限界に挑む

逃げ続ける人生から卒業したい

これまで私は、正直に告白すれば、恥ずかしい選択を重ねてきました。目の前の競争から逃げ続け、勝てそうな時だけ挑戦する生き方です。高2の夏に『孫氏の兵法』を読んで中途半端に影響を受けたせいかもしれません。確かに大学受験やブログ運営などでまずまずの成果は出せました。しかし、特に一浪時の受験では、不合格への恐れから直前で逃げ出してしまいました。京大模試で農学部A判定&冊子掲載まで果たしながら。北大入学後に「なんて情けない自分なんだ」と後悔することになったのです。京大コンプレックスを払拭するまでに何年間もかかりました。

私は競争に勝つ自信がどうしても持てなかった。小4から中2まで5年間の壮絶ないじめを経験し、「どうせ自分なんて何をやってもダメなんだ」という劣等感が染みついていました。中3の10月に馬術競技で国体優勝を果たし、その症状は一時的には和らいだ。しかし、その根本的な問題は今も解決していません。

最近になってようやく気づいたのです。自信のなさだけでなく、もしかすると「自分の限界を知るのが怖い」のかもしれないと。何かの競争で全力を出せば、自分に何ができて何ができないのかが明確になってしまう。「自分は本気を出せば何でもできる」という言い訳ができなくなる。だから無意識のうちに、限界との対面から逃げ続けてきたのではないか、、と。

限界と向き合う生き方を選ぶ

そこで私は決意しました。自分の限界と向き合おうと。博士課程で海外のトップスクールに1年間留学する。心身ともに限界まで追い込んでみて見えてくる景色を脳裏に焼き付けてやろう、と。最初は国内の東大や京大を考えました。調べていくうちに自分の専門分野に合う研究室が日本にないことが分かり、より高いレベルを求めて海外へ挑戦することにしたのです。トップスクールとは、オックスフォードやMITなど、世界ランク100位以内の大学を目指します。北大は世界ランク400位圏外。北大とは天と地ほどの実力差なハイレベル大学へ留学したい。

幸い、指導教員の人脈を通じて、世界最高峰の研究室への道が開ける可能性があります。イギリスでの生活は、確実に私を鍛えてくれるはずです。周囲は自分より遥かに優秀な研究者ばかり。特に言語面や議論の深さで、今までに経験したことのない無力感を味わうことになるでしょう。日本に留まる方が快適なのは明らか。でも、それでは私の天狗の鼻は伸び続けるばかり。若く柔軟な今のうちに海外へ飛び出し、限界の境地で自分なりにもがき苦しんでみたかったのです。

留学の資金は学振DC1(研究奨励金月20万円+研究費年額100万円)を予定していました。現在の円安で滞在期間は流動的ですが、できれば1年間、現地のラボメンバーと外国語でディスカッションを重ね、可能なら論文も一本書いて帰国したい所。留学先として検討しているイギリスは、現在ロシア‐ウクライナ戦争の影響で深刻なインフレに見舞われています。そのため、日本から玄米を大量に持参し、基本的に自炊で生活費を抑える計画です。

日本を離れて見えてくるものとは

これまで日本で生きてきて、「日本は本当に素晴らしい国だ」と実感してきました。

  • 風光明媚な自然
  • 夜でも安心して歩ける街
  • 安くて美味しい光り輝くごはん

旅行関連の国家資格取得のために勉強を進めると、私の知らなかった日本の魅力が次々と見つかり、新鮮な驚きを覚えました。しかし、「日本の真の魅力は、日本にいては分からない」とも感じています。広島から札幌に移住して初めて、地元の良さに気が付いたように。もっと日本を好きになるには、一度、物理的に遠く離れる必要があるはずです。東京と留学候補地のイギリスは約9600km。広島-札幌間(1200km)の8倍もの距離です。単純計算で、8倍の日本の魅力に気づけるのではないでしょうか。

折角イギリスまで行くのですから、現地の良さも満喫したい。英文学への憧れもあり、オックスフォードでハリーポッターのロケ地を巡ったり、パブで地元の人とフィッシュアンドチップスを片手に語り合ったりといった体験も楽しみにしていました。

その3:人生哲学を築き、残りの人生を輝かせたい

物心ついた頃から、私は「人と違うこと」を第一の指針としてきました。周りと同じことをするのは退屈で、誰かの後追いではなくパイオニアとして道を切り開くことに生き甲斐を感じていたのです。しかし、それで成功するのはごく一部の人間だけ。案の定、私は成功できず、先駆者どころか”後躯者”にすらなれませんでした。

なぜそこまで人と違うことにこだわったのか。それは「何者かになりたい」という願望、多数に埋もれることへの抵抗感からだったと思います。眼前には一流大学・大学院進学→大企業就職→結婚という既定路線が敷かれていました。先の見えている人生に退屈さを感じ、「自分にしかなしえない役割を果たせないじゃないか!」と憤っていたのです。就職を避けるため、別のブログを立ち上げて収益化を試みました。大学の学費を賄い、いずれは会社員並みの収入を、と意気込んでいたのです。しかし、結局は月3,000円程度の収益に留まりました。月収20万円だなんて夢のまた夢。フリーランスどころかフリーターになる寸前だった。

大学時代は焦って色々な挑戦をしました。どれも人生を大きく変えるには至らず。むしろ焦れば焦るほど泥沼にはまりこむ一方。次第に行動を起こすことすら恐れるようになっていったのです。

人生のコンパスを修理する

修士時代、ディケンズの『大いなる遺産』を読んでいて気づきました。私が行き詰まった原因は、「どうなりたいか」ばかりを考えていたことにある、と。本当に考えるべきは、どう「在り」たいかという内面的な問題だったはず。これまでは外面を取り繕うことに必死だった。荒れ果てた内面の庭にはほとんど目を向けてきませんでした。私に必要なのは、何者かになることではありません。「自分になること」「自分らしく生きること」が不可欠だったのです。

内面から湧き出る想いを「人生のコンパス」と呼びましょう。私のコンパスは長年の放置で針が狂ったように回転しています。自分の中に確固たる軸(N極/S極)がないから「他人と違うこと」に執着する。その結果、道しるべとしてのコンパスが機能せず、他人の言動に右往左往してきたのでしょう。コンパスは、ネオジウム磁石で修理できると聞きます。しかし、人生のコンパスの修理に必要なのは、時間と哲学なのです。

博士課程で見つけたい「在り方」とは

博士課程に進むのは、人生哲学を構築する時間が欲しいから。自分の内面と向き合い、「お前はどう在りたいんだ?」と問いかける時間が必要だったのです。

器用な人なら人生哲学の構築を会社で働きながらできるかも。しかし、生来の不器用な私には、一度に一つのことしかできません。自由に使える時間がなければ、一生構築できずに終わってしまうと直感が告げているのです。現在の私の中には、「ありのままでいたい自分A」と「何者かになりたい自分B」が同居し、綱引きをしています。博士課程の3年間で、この自分AとBの最大公約数を見つけ出し、心に調和をもたらしたい。研究が大成功する可能性は僅かかもしれません。ですが、「何者かになりたい」という想いを日々の活動のエネルギーとして、上手く折り合いをつけていきたいと考えています。

博士課程の集大成として書く博士論文の最後に、人生哲学を交えて研究の展開を述べていきたい。3年間で培った人生哲学を言語化することでスッキリと博士課程を締めくくりたいのです。Ph.D.(Doctor of Philosophy)—その名の通り、専門バカではなく、「自分はこう生きていきます」と胸を張って言える人間になりたい。

残された時間でこの世へ何を残せるか

進学と就職の岐路に立った時、「もし寿命があと3年しかなかったら自分はどう生きるだろう?」と、目を閉じて自問自答してみました。

豊富な時間があれば漫然と生きていけるでしょう。残り時間が僅かならば、すべきことを決めて生きていかねばなりません。数時間の瞑想の末、心が出した答えは「後世の人間が一層幸せになれるよう、できる限り多くの遺産を残したい」というものでした。その望みを叶えられる道はどちらなのか?D進?それとも修士就職?

私には就職よりも進学の方が相応しく感じられたのです。企業で働けば、確実に社会に貢献できるでしょう。自分が生きているうちに社会の役に立った実感を得たいなら、進学よりも企業勤めの方が手っ取り早いはずです。ただ、企業が提供する「役に立つもの」の多くは、5年後や10年後には「役立たないもの」へと変わってしまう。その短いスパンで自分の努力がガラクタになることに、深い虚しさを感じました。一方、大学での研究成果を記した論文は、すぐには役立たなくても、50年後の巨大産業の礎となる可能性を秘めています。確かに、多くの論文は日の目を見ずに終わるかもしれません。しかし、もし注目された時の社会へのインパクトは計り知れない。3年で人生の幕を閉じるとしても、「自分の研究成果がいつか役立つかもしれない」という希望を抱ける人生の方が、より充実した生き方ができるはずだと考えたのです。

まとめ

私が博士課程へ進んだ3つの理由は以下の通り⇩

  1. 電池への果てなき探究心:電池の研究に没頭し、世界一の領域を開拓しながら、日本の次世代電池開発に貢献したい
  2. 限界への挑戦:海外での長期留学を通じて、これまで避けてきた自身の限界と向き合い、真の幸せを見つけ出したい
  3. 人生哲学の確立:じっくりと腰を据えて自分の「在り方」を考え、今後の人生の道標となる哲学を築き上げたい

今週金曜は博士課程予備審査会。この二年間での成長を審査員に見せつけ、本審査へと進む権利を奪取してみせます。

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