博士課程に進めば思考人間になる
博士課程に足を踏み入れた瞬間、人は考える生き物になります。それは褒め言葉というより、呪いといった方が相応しいかもしれません。
子供の頃を思い出してください。友達に誘われたら「うん、行くっ!」と即答していたあの頃を。面白そうなものを見つけたら、考えるより先に手が伸びていたあの頃を。我々が子供だった頃、衝動と行動の間には隙間がありませんでした。衝動が意志を作り、意志が衝動になっていた。フットワークが、軽かった。
博士課程に進んだが最後、衝動と行動の隙間に溝が生じます。本当に正しいのか。他の可能性は検討したか。前提に誤りはないか。ありとあらゆる行動の前に、無意識に脳内会議を催すようになります。一つの行動を起こすまでに、膨大な思考のプロセスを経るようになるのです。
ラーメン屋で醤油か味噌かを選ぶ場面を想像してみてください。かつては直感で決めていたかもしれませんが、ここでも検討癖が顔を覗かせます。今日の体調、塩分摂取量、前回の選択との比較、店主のおすすめとの乖離といった変数が頭に入り込んでくる。たかがラーメン、されどラーメン。ラーメンですら何を食べるか即断できなくなるのです。
思考は筋肉に似ています。鍛えれば鍛えるほど強くなり、強くなればなるほど使わずにはいられなくなるのです。博士課程とは、思考筋肉を極限まで肥大させる三年間のトレーニングキャンプ。三年間で終わるならまだ良いですが、人によっては五年、六年とキャンプは延々と続いていきます。終わりの見えないトレーニングの中で、思考回路は否応なしに書き換えられていくでしょう。
毎日研究室に籠もって論文を読み漁り、実験を繰り返してデータを分析し、考察をどこまでも深めていく。朝から晩まで脳を酷使し、夢の中でも研究のことを考えている日も。そんな生活を何年も続けていれば、脳の構造が変わらないわけがありません。
かつては軽やかに跳ねていた思考は、重厚な鎧をまとうようになります。慎重で、緻密で、抜け目がない。一見すると成長のように見えるかもしれませんが、子供の頃に持っていた、あの無邪気な衝動性は失われます。かつての軽やかさは、もう戻ってきません。博士課程で思考の呪いにかかると、死ぬまで永遠に解けないのです。
墓場の住人たち
博士課程を修了した自分を想像してください。鏡の前にはアラサーになったあなたが立っています。
我々は、二十代中盤の人生で最もキラキラした時間を、ラボの中で過ごしました。同級生たちが社会に出て、恋愛をして、結婚をして、子供を授かり、キャリアを積み上げていったあの時間を、我々は実験室の蛍光灯の下で過ごしました。それが良いか悪いかということではなく、そういう過ごし方をした、ということです。
博士課程では研究に悶え苦しまされます。データと格闘し、指導教員の赤入れに打ちのめされ、学会発表の前夜に胃を痛め、論文のリジェクトに心を折られるでしょう。私はストレス過剰でD1の12月に喀血してしまいました。研究がうまくいっている時期はまだマシです。研究がうまくいかない時期には、自分の存在価値すら見失いそうになります。
博士課程三年間で、顔には十年分もの疲労が刻まれます。二十代前半の写真と見比べたとき、同一人物だとは信じられません。私も、学位授与式で撮ってもらった自分の写真を見たとき、思わず「老けたな~」と言ってしまいました。
修了できればまだ幸運なほう。運が悪ければ修了できないこともザラにあります。研究テーマが頓挫したり、指導教員との関係が悪化したり、心身の健康を損なったりして、途中で諦めざるを得ない人が一定数いる。三年、四年、五年と苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いた末に、学位を取れないまま去っていく。学位もなく、若さもなく、キャリアの空白だけを抱えて、次の一歩を踏み出さなければなりません。
成功者は「努力が足りない!」と言うでしょう。しかし、この世界には、努力でどうにもならない領域があるのも事実です。努力が足りなかったわけではなく、運に恵まれず修了できない人もいる。努力が報われるとは限りません。真面目にやっていれば何とかなるとも限りません。博士課程は、人生の残酷さを嫌というほど教えてくれます。
博士課程は、修了後も、茨の道が続きます。
まず、就職先は専門性に縛られます。専門外の職種に応募すれば、「なぜウチを受けに来たの?」と問われる。専門に近い職種に応募すれば、ポストの少なさに絶望する。アカデミアに残ろうとすれば、任期付きポストを転々とする不安定な生活が待っている。民間企業に行こうとすれば、修士とさして変わらぬ初任給を前に悶々とすることになる。博士号は、あるひとつの扉を開く鍵であると同時に、別の扉を閉ざす錠前でもあるのです。
会社に入って働いてみたら、仕事が合わなかったという事態も起こりえます。社内異動は在籍年数制限でひっかかるから、多くの場合は転職を検討するわけです。しかし、三十過ぎの、実務経験の浅い人間を喜んで採用してくれる会社が、この世にどれほどあるでしょうか。この仕事が自分に合わないことは分かっている。でも、要件不足で違う場所に移ることができない。思考力だけは無駄にあるから、自分の置かれている境遇について、常人以上に苦しむわけです。
博士課程は文字通り【人生の墓場】になりえます。華やかな二十代を埋葬し、可能性の多くを埋葬し、時には夢そのものを埋葬する場所になりえます。墓標の下で眠るものの数を数えれば、とても正気ではいられないかもしれません。
墓場からは世界一の綺羅星が見える
もちろん、悪いことばかりではありません。思考の果てにしかたどり着けない場所があります。墓場の底に横たわる者だけが仰ぎ見ることのできる星空がある。
あらゆる文献を読み漁り、可能性を一つずつ潰し、考えて、考えて、考え抜いて、なお突破口が見えない。論文にも教科書にも解決策は載っていない。指導教員に相談しても、有効なアドバイスは得られず、自分の頭で考えるしかない。いくら考えても光は差さない。もう、無理かもしれない。このテーマは自分に不相応だったのかも。そんな諦念が心を覆い始める。
不思議なことが起こるのは、大抵そういう時です。諦めかけて、力を抜いた途端、不意に流れ星のようにアイディアが降ってきます。どこから来たのか分からない。なぜ今なのかもよく分からない。論理的を越えて、解らしきものが、宇宙の果てから降ってくる。暗闘の果てに、一筋の光が差し込んでくるのです。
ずっと分からなかったことが分かったとき、涙がこぼれ落ちることがあります。悲しいからではありません。嬉しいから、というのも少し違う。あまりにも快感すぎて、身体が勝手に反応してしまうのです。長い長い苦しみの果てに、ようやく手が届いた。探し求めていたものが見つかった。
昨日の自分には見えなかった景色が、今日の自分には見えている。博士課程に入る前の自分には、絶対にたどり着けなかった場所に立っている。今日までの苦しみは、この一瞬のためにあったのだ。心からそのように思えます。苦労して良かったと本気で思える。苦労なしにはここまでたどり着けなかっただろう。
思考の深淵で光を見てしまったが最後、もう引き返すことはできません。どこまでも、誰よりも深く考えて、またあの感覚を味わいにいきたい。墓場の底で見上げた夜空に、世界一の綺羅星が輝いていたことを、一生忘れることはないでしょう。
最後に
博士課程は人生の墓場です。博士課程を修了した人間として、責任を持って言います。行かなくて済むなら行かないに越したことはありません。
修士で就職できるなら、就職した方がいい。その方が親御さんも安心でしょう。人生の選択肢は多い方がいい。若さは有限。お金は大事。安定した生活は尊い。博士課程に進むことで失われるものの大きさを、軽く見積もるべきではありません。
ですが、もし、どうしても知りたいことがあるなら。答えを見つけるまで死んでも死にきれないと思うなら。既存の知識では満足できない、自分の手で新しい何かを生み出したいという衝動が抑えられないなら。私の言う『綺羅星』を見てみたいのなら。そういう恐れ知らずな人は、行ってみるといいのではないでしょうか。
博士課程では世界で一番きれいなものが見えます。人間の知性が到達できる最果てで、宇宙で一番きれいなものが見えます。言葉では伝えきれない、経験した者だけが知っている景色があるのです。
博士課程の道のりは険しく、帰り道の保証はありません。ひょっとすると、途中で力尽きるかもしれません。星を見る前に倒れるかもしれない。仮に星を見られたとしても、失ったものの大きさに押しつぶされるかもしれない。「修士で就職しておけばよかった」と後悔する可能性だってある。
もしもあなたに深淵を覗き込む覚悟があるのなら、どうか、あの満天の星空を見に行ってみてください。あの星だけは本物です。今も、深淵の底で、あなたを永遠の星影が待っています。





















コメント