【British Airways】イギリス渡航体験記!新千歳から羽田、そしてヒースローへ

目次

10/2 (月) その2:15時間のロングフライト

離陸

轟音が腹を突き上げた。
金属の巨体が滑走路を蹴り、地が遠ざかる。東京の街並みが縮み、塔や河が模様のように変わっていく。身体が座席に押しつけられ、重力が一瞬で別のものへ姿を変える。上昇角度が緩やかになるころ、眼下に雲が広がり、その向こうで空が深く青を濃くした。

機内にて

太平洋を渡る航路は、北へ弧を描く。アラスカの上空を抜け、北極海をかすめてヨーロッパへ向かう。ロシアの空が封じられているため、飛行は十五時間近くに延びた。本来なら十二時間で済む距離だという。窓の外を眺めながら、その「三時間」の重さを思った。札幌から広島へ帰るたった二時間の便でさえ長いと感じるのに、その七倍もの時間を椅子に縫いとめられたまま耐えることになる。

座席は通路側ではなく、窓際。右隣の男は大柄で、肘掛けを堂々と占領している。左の肘だけが自分の領分。身じろぎをするたびに肩が当たり、こちらの存在を押し返してくる。わずかな距離なのに、果てしなく遠い壁のようだ。

一時間ほど経つと、通路の奥から銀色のカートが滑ってきた。最初のドリンクサービスだ。何があるのか分からず、とりあえず「Coke, please」と言ってみる。冷たい缶が二つ、手のひらに置かれた。思いがけない量に、少し笑みがこぼれる。スナックの袋も添えられていた。コーラの泡が喉を弾き、乾いた体が目を覚ます。旅の長さを思えば、この小さな炭酸の刺激が唯一の慰めだった。

一時間後、再びカートが動き出す。昼食の配給だ。チキンか和食の二択と聞かれ、迷わずチキンを選ぶ。せっかく日本を離れたのに、まだ「和」を選ぶ気分にはなれなかった。受け取ったトレイの上には、白飯、焼いたチキン、豆のサラダ、ベーグル、チーズ、そしてチョコレートムースが整然と並んでいる。湯気と香りが混ざり、閉ざされた機内に短い祝祭の空気をつくっていた。

フォークを入れると、肉の繊維が柔らかくほどけた。塩味が強く、舌に残る。普段の玄米と鰯の質素な食事とは別の世界。体が油分と糖分を欲していたのだろう。異国の旅は、まず胃袋から始まると知った。

食後のトレーを片づけると、静寂が訪れた。外では雲が重なり、地平が消えている。空間の果てに浮かぶ缶詰のようなこの機内で、十五時間という時間をどう潰すかを考えた。

スクリーンを起動すると、映画の一覧が現れた。そこにハリー・ポッターのシリーズが並んでいるのを見つけ、思わず笑った。イギリス留学の初日を飾るには出来すぎた選択肢だ。賢者の石を再生すると、魔法学校の風景が音とともに蘇る。子どものころ、繰り返し観た場面が懐かしい。ロンドンの駅の九と四分の三番線を駆ける少年たちの姿が、これから向かう土地と重なって見えた。

エマ・ワトソン演じるハーマイオニーが画面に現れるたびに、目を離せなくなる。可憐さというより、芯の強さが眩しかった。彼女が今もオックスフォードに在学しているという噂を思い出し、ふと現実味のない想像をしてしまう。どこかの書店かカフェで、偶然すれ違うことがあるだろうか。そんな夢想が、眠気の代わりに頭を満たした。

やがて外は闇に沈み、機内の照明が落とされた。窓の外に見えるのは、雲の上に散る微かな星だけ。CAが歩く足音と、エンジンのうなりが規則的に続いている。眠ろうと目を閉じてみるが、右隣の男の肩が迫り、身体を縮めてもなお距離が足りない。肘掛け一つを奪い返す勇気もないまま、膝を組み替え、息を殺して時間をやり過ごす。

時計の針が動かない。腕の下で血が滞り、足先がしびれる。意識がぼやけた瞬間、シートベルトのランプが点灯した。気流の乱れか、機体が微かに震えている。どこまでも続く夜の中で、自分だけが取り残されたような感覚に陥った。

長い暗闇ののち、窓の向こうに淡い光が差した。橙と青が混ざる帯が、雲の端に沿って広がる。北極の夜明けだ。目を凝らすと、氷原のような雲海がゆっくりと色を変えていく。光が伸び、翼の縁をなぞり、金に変わった。言葉も出ないまま、その光景を見つめた。旅の長さも、疲労も、その瞬間だけは意味を持たなかった。

朝食のカートが通路を進み、乗客が目を覚まし始める。次の食事はビーフとパスタの二択。私はビーフを選んだ。皿の蓋を開けると、湯気の向こうに肉の香りが立ちのぼる。塩気が舌に残り、胃が再び動き始める。味は濃く、単調だが、体に染みた。日本での繊細な味覚が遠くに霞む。食べるたびに、自分の舌が別の国のものへ変わっていく気がした。

食後、再び窓の外を見た。雲の切れ間から大地が覗く。緑が多い。畑がパッチワークのように広がり、石造りの家が点々と並んでいる。想像していた灰色の国ではなかった。息づく土地の色が、どこまでも柔らかい。

間もなく、機長の声が響いた。着陸の準備を告げる低い英語。乗客のざわめきが戻り、ベルトの金具が一斉に鳴る。身体が沈み、耳が詰まる。地面が近づく感覚とともに、十五時間の空の旅がゆっくりと閉じていった。

ヒースロー空港到着

タイヤが滑走路を捉え、振動が脚を通して伝わる。誰も拍手しない。みな疲れ果て、黙ったまま携帯を探している。窓の外では雨が細く降っていた。ヒースロー空港、第五ターミナル。長い空の上の時間が終わり、別の現実が目の前に立っていた。

1 2 3 4 5

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

カテゴリー

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次