【中学受験体験記】小学四年生から受験本番までの一部始終

今から皆様へお送りするのは、私が14年前に経験した中学受験の体験記。受験勉強を始めた小学四年生から小学六年生、そして受験シーズンの思い出を記しました。不思議なもので、記憶は昔に遡れば遡るほど鮮明に残っているのです。もしかすると大学受験の体験記より解像度が高いかもしれません。

広島地区の中学受験生の方、およびそのご両親にピッタリな内容です。ぜひ最後までご覧ください。

それでは早速始めていきます

小学四年生

塾に通い始める

小学三年生が終わり、短い春休みを挟んで小学四年生になった年。ある日、突然親に連れられて塾の体験授業へ行くことになった。後年、母は「自分から行きたいと言った」と主張するのだが、正直に言って、当時の私は”塾”という単語すら知らなかった。そんな私が自分から志願するはずもない。

おそらく、ママ友との何気ない会話の中で「え~、お宅のお子さんは塾に通ってないの?」といった言葉が飛び出したのだろう。子どもたちはポケモンのように親同士の見栄の張り合いに巻き込まれる。正直なところ、大人たちの社交辞令に振り回されるのは少々つらいものがある。

鷗州塾、長井ゼミ、そして鯉城学院(現・英進館)の3つを見学することになった。どの塾も授業の構造は驚くほど似通っていた。講師が壇上で熱心に説明し、生徒たちは一様に真面目な表情でノートを取る。授業の終わりには必ず小テストがあり、次の授業でその返却—この流れはどこも同じだった。

体験授業を終えた後、母から「どの塾がいい?」と聞かれた。「正直、どの塾も行きたくない」と答えると、母の態度が一変。「誰がこれまでお金を出してあげたと思っているの!」と声を荒げられた。生活の基盤を握られている以上、逆らうことはできない。結局、体験授業の先生が最も親切だった鯉城学院への入塾を決めることになった。

字が汚い

当時の鯉城学院の小4コースには二つの選択肢があった。国語・算数だけの二科目コースか,国語・算数・理科・社会の四科目コースだ。私の場合は最初、国語と算数だけの二科目コースからスタートすることになった。塾を嫌がる私のことを考えて、母も最初は控えめなコース選択をしてくれたのだろう。

授業内容自体は、小4の段階ではそれほど難しくなかった。むしろ簡単すぎて、「塾ってこんなものなのか」と少し油断していたほどである。授業後の小テストでは、ほぼ満点を取れることも多く、正直なところ、この程度の問題を解くために塾へ通う必要があるのだろうかと疑問に思っていた。

ところが、塾内模試を受けてみると、思わぬ落とし穴が待っていた。全国統一小学生テストでは偏差値60台後半から70程度だったのに、塾の模試では50台後半から60程度まで大きく下がってしまったのである。

その原因は、実に単純なことだった—文字の汚さである。全統テストはマークシート方式なので問題なかったが、塾の模試では全て手書きでの解答が求められた。しかも、解の導出過程まで書かなければならない問題も散見された。解答が正しくても、字が読めないという理由で減点されてしまうのだ。

答案用紙を家に持ち帰ると、母からは厳しい指摘が飛んだ。「なんでこんなに字が汚いの!」と。確かに、文字の汚さは私自身も自覚していた。頭の中で思い描いた文字を、思い通りに手で表現することが生来苦手だったのだ。

実は母も字は決して綺麗ではなかった。「お母さんから遺伝したんじゃない?」と言ってしまったのが運の尽き。そこからは説教の嵐が待っていた。しかし、一年ほど経つと、少しずつ読める字が書けるようになってきた。そして、「字が汚い」という理由での減点も、徐々になくなっていった。

小学五年生

算数が苦手・社会が得意

小5からは理科と社会も加わり、通塾頻度は週3〜4回に増えた。学校が16時頃に終わり、急いで帰宅してシャワーを浴び、私服に着替えて少しだけ休憩。冷蔵庫の食べ物を軽く摘んで、17:30からの塾の授業に間に合うよう走って行く—そんな慌ただしい日々が始まった。

学校と塾の二重生活による疲れは、意外にも感じなかった。元気いっぱいだった当時の私は、21時過ぎの塾終了まで眠気を感じることはほとんどなかった。

ただ、本当に困ったのは「空腹」だった。きちんとした夕食を取る時間もないまま塾へ向かうため、授業中はお腹を空かせていることが多かった。「早く授業が終わらないかな」と念じながら、口いっぱいに空気を吸って噛みしめ、なんとか満腹感を得ようとした苦い思い出が今でも残っている。

四科目を学び始めてみると、思いがけない発見があった。それまで得意だと思っていた算数が急に難しくなったのだ。つるかめ算や年齢算、割合と比など、新しい概念が次々と登場し、頭の中はニューデリーの道路のように混沌としていった。

一方で、社会科が驚くほど得意だということが分かった。先生の説明を聞くだけで、内容がすんなりと頭に入っていく。特に政治経済と歴史は得意分野で、教科書を写真のように記憶できる自分の能力に、むしろ楽しさを感じていた。テストでは常に塾内で1、2番を争うほどだった。

みろくの里で夏合宿

鯉城学院では毎年、広島県福山市のテーマパーク「みろくの里」で夏合宿を開催していた。ディズニーランドの一角で勉強するようなものだと想像してほしい。目の前に遊具が見えているのに、宿泊施設に缶詰になって一週間ほど勉強に明け暮れる。正直に言って、本当に辛かった。

塾の講師は保護者に「参加すれば合格確率アップ間違いなしです!」と熱心に勧める。そう言われれば、親も参加させざるを得ない。しかし、たかが数日の勉強で受験の成果が劇的に変わるはずもない。それでも、この合宿での解放感は凄まじかった。「来年まであの合宿に行かなくて済むんだ…」と、帰りのバスの中で思わず涙が流れ落ちたほどである。

朝6時から始まる一日は、外での点呼から始まる。ラジオ体操をし、講堂での勉強、食事、そしてまた講義。確認テストは容赦なく、点数の悪い生徒には厳しい指導が待っていた。午後には1時間ほどの貴重な昼寝時間もあったが、起きるとすぐにまた講義の嵐。一番眠い時間帯に社会の授業があり、確認テストで点数の悪かった生徒たちには容赦ない叱責が降り注いだ。

これを一週間繰り返すと、頭がおかしくなりそうだった。ただ、確かにこの合宿を乗り越えることで受験へのストレス耐性は確実に上がった。普段の授業や長時間の模試も、この経験があれば何とかなる。それでも、何人かの離脱者が出たのは仕方のないことだった。健全な小学生にとって、この合宿は確かに過酷すぎたのかもしれない。

合宿最終日には全科目の総合テストがあり、昼休みに講師が採点。午後には各科目の成績優秀者が壇上で表彰された。私は社会で表彰していただき、これが大きな自信につながった。「社会が得意」という自己認識が、ここでしっかりと確立されたのである。

小学六年生

得意な社会の配点は低い

得意の社会科で高得点を取れても、配点が他の科目より低いのが大きな悩みだった。算数や国語が150点や200点満点なのに対し、社会は100点満点のことが多い。社会で満点を取っても、算数や国語での減点ですぐに相殺されてしまう。理科での失点が追い打ちをかけ、総合成績がなかなか伸びない日々が続いた。

受験勉強が本格化するにつれて、ストレスも着実に溜まっていった。小学生にもかかわらず重度の肩こりに悩まされ、テストではケアレスミスが増えていった。社会以外の科目で点数を取りこぼし、時には偏差値が40台や30台まで落ちることもあった。

テストの結果が返ってくるたびに母からの叱責が待っていた。不思議なことに、私よりも母の方が受験に向けて神経質になっていったように思う。在宅中、すれ違うたびに舌打ちされる日も少なくなかった。

ある日、あまりにも酷い点数を取ってしまったテストの答案用紙を、塾の近くの公園で焼却してしまったことがある。道端に落ちていたライターで証拠隠滅を図ったのだが、その様子を塾の上層階から塾長にバッチリ見られていたらしい。翌日、塾長に呼び出された。事情を説明すると、「もうこんなことはしない方がいいぞ。今回は見逃してやる」と温かい言葉をかけていただいた。

そんな中、私は算数の克服に全力を注ぐことにした。社会科以外で点数を稼ぐには、最大の弱点である算数を何とかしなければならない。算数の問題集を何度も何度も解き、分かるまで繰り返し取り組んだ。小6の大半は算数の学習に費やしていたように思う。

その努力は次第に実を結んでいった。算数の偏差値は55から60の間を安定して取れるようになり、時には問題との相性が良ければ65という高得点も射程圏内に入ってきた。算数の成績が上がると、不思議なことに他の科目の点数も連動して上昇。総合偏差値は58前後で安定するようになった。

この成績なら母も満足してくれたのだろう。小6の後期になると、それまで日常的だった母のヒステリー的な反応が嘘のように収まっていった。おかげで心穏やかに受験勉強に打ち込めるようになり、テストにも余裕を持って臨めるようになった。

修道中学80%、広島学院40~60%

広島県の男子中学受験には、明確な序列があった

  • 【最高峰】広大付属福山、広島学院
  • 【難関校】県立広島、修道
  • 【標準校】広島なぎさ、城北

私の実力は、修道中学なら80%以上の合格率。広島学院は40〜60%という微妙なライン。私自身は「自由な校風」を謳う修道中学を第一志望としていたが、母は広島学院を強く希望していた。日常会話の節々で「学院に行ってくれたらなぁ」という願望が漏れ出ていた。

大みそか暗記道場

年末には「大みそか暗記道場」という特別イベントがあった。朝から晩まで、受験に出題される重要項目を詰め込む、まるで信仰のような行事である。講師は「乗り越えられれば合格できる。だから頑張れ!」と、まるで教祖のように私たちを鼓舞した。

理科と社会を交互に学ぶ構成で、得意の社会の時間は既に頭に入っている内容が多かったため、むしろ休憩時間として活用。不得意の理科に全力を注ぐことができた。

このイベントがどれほどの効果があったのかは、正直よく分からない。理科は相変わらず不得意のまま、社会は変わらず得意のままだった。

中学入試シーズン

幾度となく繰り返された叱責や試練を乗り越え、ついに本番のシーズンを迎えた。不思議なことに、緊張はほとんど感じなかった。むしろ「合格すれば、これまでのような厳しい日々から解放される」という期待感の方が大きかった。

以下では各学校の受験にあたって記憶している事柄を記していく。

1/15 近大付属東広島中学校:合格

まずは”肩慣らし”として、近大付属東広島中学の入試に挑戦することになった。東広島までは普通列車で一時間以上かかるため、広島市内に設けられた試験会場で受験することにした。塾の友達も大勢が受験に来ていた。

試験は予想以上に簡単で、分からなくて手が止まる問題がほとんどなかった。もし点数を落としたとすれば、それは単純なケアレスミスによるものだろう。試験が終わった瞬間、「これは受かった」という確信があった。実際、合格通知を受け取ることができ、「自分でも合格できるんだ」という小さな自信が芽生えた。塾の講師が言っていた通り、この合格が後の試験への弾みとなった。

1/20 広島なぎさ中学校:合格

広島なぎさ中学は、過去問演習でいつもボーダーライン上の点数しか取れず、少し不安があった。そして受験当日、母が突然あれこれと世話を焼き始めた。うっとうしくなって「放っておいて」と言ってしまったところ、「誰がこれまでお金を出してきたと思っているの!」と激しい剣幕で叱られた。心が乱れたまま、一人で列車に乗って試験会場へ向かった。

案の定、試験は散々な出来だった。特に算数が酷く、問題を前にしても頭が働かず、解法を見出せないまま時間だけが過ぎていった。理科も、たまたま全く覚えていない分野の問題が出て壊滅的な結果に。「これは落ちた」と確信していたが、翌日の合格発表で自分の受験番号を見つけた時は信じられない気持ちだった。どう喜んでいいのか戸惑いながらも、少しずつ安堵感が広がっていった。

1/23 広島城北中学校:合格

城北中学の受験については、バスで学校の前まで行き、険しい坂を上って校舎に入ったことしか記憶に残っていない。ただ、試験の手応えは十分で、無事合格。この結果は、次の広島学院受験への自信にもつながった。

1/31 広島学院中学校:不合格

母の強い希望校であり、塾の講師からも「かめちゃんなら受かるでしょう」と期待されていた広島学院。過去問や予想問題を解いた感触からも、6〜7割は合格できるだろうと思っていた。試験問題への苦手意識もなく、ケアレスミスさえなければ大丈夫だろうと考えていた。

しかし、実際の試験の手応えは微妙だった。できた科目もあれば、思い切り失敗してしまった科目もあった。合格か不合格かは五分五分といったところ。良い点数を取れた自信はなく、受験前に抱いていた自信は跡形もなく消え去っていた。

翌日は第一志望の修道中学の試験。広島学院の合否を待たずに次の受験に向かわなければならなかった。学院のことはいったん頭から追い出し、修道の試験に集中することにした。

パソコンで広島学院の合格発表を確認した瞬間、画面が暗転したような衝撃が走った。不合格。3年間積み上げてきた努力が、たった一日で崩れ落ちた感覚。言葉にならないほどのショックだった。

2/1 修道中学校:合格

修道中学の試験は全科目で満足のいく出来栄えだった。これまでに受けた模擬試験以上の手応えがあった。しかし、前日の広島学院での不合格を受けて、「もしかしたら修道も落ちているかもしれない」という不安が頭をよぎった。

合格発表の日、私の受験番号511を見つけた時の喜びは今でも鮮明に覚えている。その日の午後、修道中学へ赴き、田原校長先生と固い握手を交わし、入学手続きの書類を受け取った。こうして、私の中学受験は幕を閉じた。

修道中学ではこれまでにも増して激動の日々が待っていたのだが、それはまた別の物語として語ることにしよう。

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