9/30〜10/1:会社の対面イベント&内定式(リア幸70)
9/30:対面イベント
内定した企業の部署が開催する懇親イベントへ参加してきた。同じグループへ配属される同期は私を含めて三人だそう。私以外の二人はともにM2。修羅の道を歩んできたD2から見れば、M2の二人は研究の苦労を知らず、肌が随分とピチピチしている。「ドクターになんて行くもんじゃないよ笑」と言っておいた。あんな所へ行くのは、よほどの変態か、研究者以外になるのが耐えられない理想主義者に限られる。頭のねじが抜けていない人間は行くべきではない。行ったが最後、ねじが腐食して砕け散り、ものの一年も経たないうちに頭が変になっておかしくなるだろう。
私の配属される部署へは学生がもう一人配属されるそう。驚いたのが彼の出身校。なんと!私と同じ中高出身だった。学年もめちゃくちゃ近くてビックリ。ひとつ下の学年だそう。中高の在籍期間が五年間もかぶっている。ひょっとすると、学校のグラウンドや食堂で何度かすれ違っていたかもしれない。向こうは私の名前を知っていた。『乗馬で国体に出て優勝した人ですよね?』と言ってくれた。国体で勝ったのはかれこれ十年以上も前のこと。そんな大昔のことを覚えていてくれて嬉しかった。今後、悪い意味で有名にならないよう気を付けたい。模範的北大生から模範的社員になって真面目に働くつもり。
彼を含め、同じグループに配属される学生との懇親を深められた。D2の私に対してあまり気を遣わず、普通に接してくれて感謝しかない。もしも私がM2だったら、同期社員となる博士学生へ同じような態度で接せられるだろうか?無理な気がする。変にリスペクトして距離を置いてしまうかもしれない。 それにしても、M2とD2が同期ってなんだか不思議な感覚。研究室ではM2のみんなからなめられている崇め奉られているけれども、研究室を出て会社に入れば上級生も下級生も関係ない。もしも早期修了を目指していなければ、同じ高校の一つ下の学年にいた子が自分の上司 (OJT役?) になっていたのか。向こうも自分もやりづらくて仕方がなかっただろうからちょうど良かった。
10/1:内定式
内定者全員を会社の講堂に集めて厳かに式典が執り行われた。同期社員は合わせて200人超。さすがは県内No.1の大企業。
厚手の紙に印刷された内定通知書を受領した。全員分の通知書を作るのに結構な予算がかかっただろうなぁ。わざわざ内定式を開き、通知書を渡すのも社員の定着率向上の方策なのだろう。今どきの世代は『大切にされている感』を味わえなきゃすぐに離職してしまうらしいから。個人的には、手厚くもてなされるよりも給与を上げてくれる方が嬉しい。会社で働くのはカネのため。自分がもしも社長だったら、社員の勤務満足度を給与引き上げか福利厚生の充実で高めようとするだろう。
内定承諾書へとサインした。コレに名前を書いて提出した瞬間、来年四月からこの会社で働くことが義務付けられる。会社をクビにならない限り、労働期間はおよそ30年。進次郎の政策で年金支給開始時期がもっと後ろにずれ込めば、労働期間は40年、あるいは50年になるかもしれない。自分の未来に思いを馳せると少し気が遠くなってくる。今から50年間もずっと働き続けるだなんて考えられない。数十年もの労働へ挑むのも良し、さっさとお金を貯めて早期退職するのも良し。自分がいずれの道に進むかは入社してから判断すれば良い。企業生活の終了時期を決める権利は自分側にある。それがそう簡単にはクビにならない古きよき日系企業の長所。
2日:「あの日」から一年 (リア幸70)
内定式を終えて広島から札幌へと帰った。明日からはゼミ。週に二回、午前中に90分程度行われる。せめてゼミのある日ぐらいは研究室へ顔を出したいと思う。残りはもう家の中だけで完結する仕事ばかりだが、たまには先生と会い、後輩とバカみたいな話をして気分転換を図りたい。二ヶ月間の夏季休暇が終わり、人生最後の学期が始まる。せっかくなので、二単位分の講義を履修登録して受けてみる。卒業単位はもう確保済み。この二単位は取れても取れなくてもどちらでも良い単位。噂によると、北海道のIT企業の社長がオムニバス形式で講演してくれるらしい。いったいどのような刺激的な話を聞かせて下さるのかと今からすごく楽しみにしている。
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神戸空港で飛行機をボーっと見ていてふと昨年のことを思い出した。
今日で「あの日」からちょうど一年経つ。一年前の10月2日、羽田空港からBA008便でヒースロー空港へと飛んだ。フライトタイムは15時間超。飛行機の遅延やバスの乗り間違えなど散々な目に遭ってたどり着いた【オックスフォード大学】は生き地獄だった。研究指導をして下さるはずの先生や学生は研究室へほとんど出てこなかった。使用予定だった実験装置は使う前から全て壊れていた。辛うじて生き残っていた装置は、チャイナ人ポスドク女性が目の前で息の根を止めた。研究留学へ行ったにもかかわらず、何ひとつ収穫を得られずに時間だけが過ぎていった。オックスフォード大への在籍料は半年で100万円超。往復渡航費と宿泊代を含めれば200万円超の出費になる。お金を”払って”いるのに何もさせてもらえぬ理不尽に堪えかねて途中帰国を選んだ。羽田空港に帰ってきた日の夜は国際線ターミナルの屋上で悔し泣きした。
オックスフォード大学への留学を『将来的な海外就職への足掛かり』にするつもりだった。将来は海外で研究者になりたかった。この留学を、【博士修了後に始まるポスドク生活の予行演習】と位置付けていた。留学は見事なまでに大失敗。あまりに嫌で不快な思いをたくさん味わい、海外へ対してネガティヴな思いだけが残った。留学開始前までは世界を股にかけて活躍する研究者を夢見ていた。いざ渡英し、夢が打ち砕かれ、自分の描いていた未来予想図がただの幻想だと思い知らされた。海外の道を諦めて国内就職を決意。進路もアカデミアから民間へと切り替えた。広島の企業へご縁があって内定。内定式に昨日参加。来年の四月から勤務が始まる。
今になって感じる。せめてポスドクとして一年ぐらい海外で過ごしてみても良かったかもしれないなぁ、、、と。海外で一度失敗したからって夢を諦める必要はなかったんじゃないのか。このまま順調に早期修了して就職すれば、学振DC1の任期期間を一年捨てて特別研究員を退職することに。博士修了時に学振DC1の任期が残っている場合、資格をDC1からPDへと切り替えられる。DC1からPDになれば月給が20万円から36.2万円へと八割アップ。科研費はDC1時代のもの (*私の場合は140万円/年) をそのまま引き継げる。これだけたくさんのお金があれば一年間まるまる海外で過ごせたはず。D1の留学ではあまりにカネがなくて毎日ひもじい思いを味わった。けれども、月給を35万円ぐらい貰えれば衣食住に不自由のない生活を営めた気がする。
海外留学失敗の雪辱は海外留学でしか晴らせない。ポスドクとして海外へリベンジを果たしてから就職しても良かったかもしれない。いかんせん、内定をいただいた企業の面接があまりにも楽勝すぎた。これならポスドクとして面接を受けてもおそらくアッサリ受かっていたと思わせられるぐらいに。面接が二回あると聞いていたのに、一次面接をスキップしていきなり最終面接だった。SPIもエントリーシートの提出も不必要だった。アレなら二日酔いのボロボロの状態で臨んでも通ったかもしれない。七年前、現役受験時に落ちた京大へのリベンジから逃げて北大へ行った。京大受験から逃避した己の決断は学部時代の私へ絶え間ない苦しみを与えた。いま、自分は京大ではなく海外ポスドクから逃げた。進路選択の背景は大きく異なるとはいえ、構造的には七年前とほとんど変わっていない。
自分はこの七年間に何を学んだんだ。人生の岐路で最善の道を選ぶために必死で勉強してきたんじゃないのか。覚悟もひとかけらの勇気さえもない。何をやっていたんだ、自分。この七年間、ただボーッとして過ごしていたのか?自分の進路選択は性急だったのではないか?海外での収入が一年分は確約されていたのだから、思い切ってポスドク生活へ挑戦してみれば良かったのでは?海外へ興味のないフリをしても無駄。自分のことだ、どうせまだ心の奥底では海外に対する未練を抱いている。だったら素直に海外へ行けよ、クソバカ。”京大なんて興味ないし”と強がっておいてB1から六年間も京大コンプレックスを抱き続けた過去を忘れたのか?
……こうして進路について冷静に考えられるのも、今や早期修了が決定的になったからにすぎない。進路を選択したD1・1月時点では、まだ早期修了はおろか、標準年限で博士課程を出られるかどうかさえ不透明だった。また帰国当時、海外へ対しては、”嫌”というよりも『憎悪』の感情を抱いていた。何年間も節約して準備したお金や時間と気力を無為にしやがって。海外留学であれほど酷い目に遭った直後に海外へリベンジする前向きな気持ちなど抱けない。度量がおちょこほどしかない自分に寛容性を期待する方が無理。国内就活は、D1・1月時点における自分なりの最善手だったと信じたい。あの日、あの時、あの心情で選び取れる中で最も良い道を選んだのだ、と。
内定承諾書へサインした以上、ポスドクではなく会社員として頑張る。入社数年後、まだ海外へ未練が残っていれば、海外駐在員制度へ挙手して会社のお金で海外へ行けばいい。海外転職して海外を本拠地にするのも一案。いっそ、脱サラしてまた研究者を目指しても良い。海外への道が断たれたわけではない。今までと同様に努力し続けていれば、そのうち、己の行きたい方向へ細い一本道が拓けてくるはず。いつ、どこで、どのような形で転機が訪れるかなんて分からない。チャンスの順番は不意打ちで来る。チャンスをチャンスだと気付き、一気呵成にモノにできるかが今後の人生で厳しく問われていると思う。