博士課程早期修了への道†11 博士論文、脱稿。予備審査に向けて準備

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博士論文にはリジェクトがない

学術論文と博士論文 (D論) の一番の違いはリジェクトの有無。NatureやScienceなど学術雑誌へ投稿する学術論文は容易にリジェクトされる。私なんて、一つの論文が四回連続でリジェクトされてしまった経験が。この時ばかりは自分の研究が持つ価値へ疑いの目を向けてしまった。一方で、博士論文はよほど手を抜いて作らない限りはリジェクトされない。体裁を整え、そこそこのボリュームの論文を提出しさえすればアクセプトされる。

薄っぺらいD論を出せば、ひょっとすると主査や副査から厳しい指摘を食らうかもしれない。指摘された箇所を書き直し、再提出すればちゃんとアクセプトされる。オーバードクターするか否かは、修了要件の充足の有無と予備審査や公聴会の出来次第。博士論文の出来が悪いからといってオーバードクターとはならない。博士論文の執筆はものすごく気楽。アクセプトがほぼ前提の論文を作るってこんなにもウキウキするものなのか。

博士論文のボリュームには規定がない

D論への注力度合いは著者の我々に委ねられている。何をどこまで突き詰めて記すか、どこの章をどの程度まで充実させるかは完全に己次第。

めちゃくちゃ頑張って200ページ越えの大著を記しても良い。D論を査読する主査や副査が「もう勘弁して下さい」と音を上げるぐらいの大作を叩きつけても構わない。一方で、トコトンまで手を抜くこともできる。自分の卒論や修論をコピペして出せば最小限の労力でD論が仕上がる。専攻内の先輩方のD論を見てみたら、人によってボリューム差が非常に大きい点に気付く。150ページ越えの人もいらっしゃれば、80ページに満たない小著で済ませた方も。D論を開いて少し読んだだけでも著者の頑張りが想像できる。「この人は頑張ったんだな」「この人、手を抜き過ぎじゃね笑?」と見抜けてしまうから不思議なものだ。

D論へ捧げる熱量の大きさは、研究に対する愛着の大きさで変わってくる。「研究命!」な人間と「研究なんか大嫌いだ…」と思っている人とでは天と地ほどの熱量差が。かく云う私はどうなのか?正直言って、研究への熱量はあまり大きくない。正確に言えば”失われた”、だろうか。D1後期のイギリス留学で大失敗して以来、ものの見事に研究熱が冷めた。研究者志望だったのが、留学を機に、真逆の脱アカデミア志望に。一日でも早く研究の世界から足を洗いたくて博士早期修了を志したぐらいだから。

最後ぐらいは真面目に作りたい

D論を作り始めたとき、最初は思い切り手を抜いてやろうと思っていた。ChatGPTやCopilot AIにテキトーな文章を作らせ、あとは卒論や修論の内容を切り貼りして最小限の労力で済ませるつもりだった。作成期間は一週間と掛からないだろう。ものの三日で仕上がるはずだ。予備審査と公聴会を乗り切り、めでたく早期修了。博士号をゲットだぜ♪

・・・・・

本当にそれで良いのだろうか。

D論はこれまでの研究の集大成にあたる。五年間もの長大な歳月を費やして得られた成果の最終形態がそんな杜撰なもので納得できるのか。正直言って、今はもう研究なんか好きでも何でもない。もはや微塵も興味がない。自分の研究が自分の代で潰えてしまっても構わない。しかし、『いま』研究が好きじゃないからといってテキトーな論文を仕上げたら後悔しないだろうかそんなバカなことをすれば、研究が大好きだったB4からD1前期までの自分を侮辱することになるはずだ。果たしてあの三年半は何だったの?全くの無価値?頑張らない方が良かったっていうの?健康や聴力など、研究以外のあらゆるものを犠牲にしてビッグジャーナルや学振DC1に挑戦したあの日々は全くの無駄?研究者になるのを目指して駆け抜けた年月が唾棄すべきものだっていうのか、自分は?

…テキトーに作って良いわけがないよね。最後の最後で手を抜いてしまったらきっと一生後悔してしまうはず。”あのときもっと頑張っておけば”と思っても後の祭り。D論は一度アクセプトされたが最後、もう二度と手を加えられないのだから。今まで幾つもの後悔を味わってきた。恋愛、趣味、進路選択など、手痛い失敗を何度も重ねている。わざわざD論まで後悔リストに載せる必要は無い。自分がいまひと踏ん張りするだけで後悔リストへの掲載からは免れられる。

それに、D1前期までの自分の頑張りへ泥を塗る行為だけは絶対に許されない。研究が大好きで、研究と結婚するぐらいの勢いでD進した己の決断を否定したくない。過去の自分へ面と向かって「研究なんて頑張っても無駄だよ」と言えるだろうか?本気で頑張っていた自分の研究姿勢へ無価値の烙印を押せるだろうか?そんなのあんまりだ。できるわけがない。研究に無上の価値を見出して疑わなかった己にNoを突きつけられやしない。D進を選んだ勇気へ乾杯。自分が焼き尽くされてしまいかねぬほどの情熱を捧げた過去の自分に敬意を表したい。であれば、本気で作らなきゃダメだ。コスパ度外視で、ブログへ捧げている熱量以上のものを注いで創り上げねばならない。

D論は、研究への想いが皆無な今の自分のために記すわけじゃない。今の自分なんてクソくらえ。今よりも過去の自分の方が輝いている。D論は早期修了のための道具ではない。最小限の作成労力で済ませ、小躍りして喜ぶべきものでもなかろう。私はD論を、研究が大好きだった一年半前までの自分へ捧げたい。研究を愛した一人の若者への鎮魂歌 (レクイエム) として記すことに決めた。

博士論文、脱稿

おたる水族館

先月には中旬に三連休があった。今月にも初旬に三連休が設けられていた。先月の三連休はAmazon Prime Videoでガッキーのドラマを視聴。「獣になれない私たち」というラブロマンス系ドラマを全話眺めた。ガッキーが可愛すぎて悶え死んだ。今月もガッキーのドラマを見、今度は以前よりももっと悶え死ぬつもりだった。ドラマよりもまずD論を仕上げるのが先ではなかろうか。吾輩は北大生である。まだかろうじてサルではない。

今月の三連休は毎日朝8時から研究室へ。5時半から1.5~2時間ほどランニングをし、シャワーで汗を流してから大学で粛々とD論執筆。記すといっても新たに書くのはイントロと総括部分のみ。歌は最初と最後が肝心。研究好きの魂を鎮めるに相応しい出だしと終わりへと仕上げたい。おたる水族館のゴマフアザラシをデスクトップの背景に設定。D論執筆に疲れたらファイルを閉じ、氷上で気持ち良さそうに寝そべっているアザラシをぼーっと眺めて癒された。

三連休で仕上がったのはイントロのみ。総括にまでは手が回り切らなかった。翌週の土日で総括の仕上げ。末尾に業績リストと直筆サイン入りの謝辞を載せて脱稿。イントロと総括以外の部分は、過去に出版した学術論文のコピペで構わない。自分の定めた様式に合うよう文章を編集して貼り付ける単純作業。私のD論は合計で200ページ弱。自分の学生ラストを飾る創作物に相応しい仕上がりになったと自負する。

とりあえず、D論のイントロを印刷し、指導教員に読んでもらった。直すべきポイントは特に見当たらないらしい。修論は先生がファイルを開いて3秒でOKが出た。卒論に至ってはファイルさえ開かず、ファイルの重さだけを確認して「いいよ」と言われた笑。「本当に読んでくれたんですか?」「うん、ちゃんと読んだよ」ならば良いのだけれども。先生からはいくつかの追記案を授かった。これ等の内容を盛り込めばD論がよりよくなるであろう珠玉の案を。どうやら本当に読んでくれたらしい。お忙しいなかお時間を取らせて申し訳ない。せっかく指摘してもらった以上、手抜きせずに原稿へ盛り込もうと決めた。先生から言われた箇所を追記すれば、キリよく200ページに仕上がるだろうから。

予備審査会に向けて粛々と準備

博士課程の学位審査は三段階。中間審査に予備審査、それに最後の公聴会だ。中間審査まではほぼ全員が通る。審査員もニコニコ笑顔で話してくれる。予備審査以降は必ずしも全員がパスできるわけではない。審査員の表情も真剣そのものである。

予備審査へ挑むには前提条件がある。予備審査会の前までに博士修了要件のクリアが必要だ。修了要件をクリアし、予備審査にも耐えうるD論原稿を仕上げられた人に限って予備審査に挑戦できる。審査での受け答えやD論があまりに不出来だと公聴会へは進めない。私の所属専攻の場合、予備審査会の発表時間は40分。続けて行われる20分もの長大な質疑応答を乗り越える必要が。要するに、めちゃくちゃ気合を入れて準備しなくちゃならない。今までの如何なるゼミ・学会発表よりも真面目に準備しなければ突破困難。

とはいえ、これまでの博士学生の大半が挑戦し、乗り越えられた壁である。あの人たちに越えられ、自分にだけ越えられない訳がないだろう。極端に恐れたら本番で足がすくむ。相手の過大評価は禁物だ。自分がやるべき事だけやればいい。発表準備のみに意識を集中させ、本番でも自身が最善を尽くせるよう万全の対策を施しておこう。冷静、ワクワク、強気が肝心。己を更なる高みへと導いてくれる試練へ感謝しつつ、軽々と乗り越えてやろうじゃないか。

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