入院
先月下旬、父から急に連絡があった。母が緊急入院したらしい。診断の結果、悪性リンパ腫だった。
悪性リンパ腫は”血液のがん”。身体じゅうに張り巡らされたリンパ腺の状態が悪く、免疫機能が極端に低下してしまう。悪性リンパ腫になると、水分の循環機能が滞り、身体じゅうが むくむ らしい。母は、肺に1リットル弱の水が溜まっていた。
思い返せば、入院一か月前、実家に帰ったとき、母の顔が普段より腫れている気がした。病気とは知らないから「大丈夫?」とも尋ねず、何だかんだいってスルーしていた。あのとき病院に連れて行っておけばよかった。母には申し訳のないことをした。
父が母を病院に連れて行った。入院直前の母は、呂律が回らず、意識が朦朧とした状態だったそう。病院に入って、すぐ高度治療室(HCU)に入れられた。翌日には手術。それから検査。
悪性リンパ腫には40種類ある。悪性リンパ腫は悪性リンパ腫でも、どのタイプの悪性リンパ腫なのかを調べる。ハーゲンダッツはバニラとストロベリーとで食べ方が180度違う。悪性リンパ腫も同じ。どういったリンパ腫なのかによって、用いる治療薬が変わってくる。
入院一週間後に父とお見舞いへ。母は、普段よりふた回りも小さくなっていた。雰囲気が別人のようになっていた。喜怒哀楽が皆無。すべてを諦めたような顔をしている。このままいなくなってしまうのかと思った。まだ60歳にもなっていないのに。自分が早期修了したのは何のためだったのか。ここで母を看取るためだったのか。サンフレッチェを熱烈応援するつもりで飛び級&Uターン就職をかましてきたのに、まさかこんなことになるなどとは夢にも思わず。
さらに一週間後、二度目のお見舞いに行った。先週と比べて随分と元気になっていた。顔には生気が戻っていて、「まだまだ生きるよ」と活気に満ちていた。この調子では当分大丈夫だろう。今すぐ状態が悪くなるなどということは無い。
その一週間後には一般病棟に移った。これから本格的な抗がん剤治療が始まるようだ。早速点滴で薬を投与してもらったら、効き目が抜群で、症状がみるみるうちに良くなっていった。本来、抗がん剤にはキツい副作用がある。髪の毛が抜けてしまう人も多い。母の場合は、副作用が軽かった。軽いというより、ほとんど無かった。今まで家で過ごしていたときと同じ様子に見える。お医者さん曰く、退院まで秒読みらしい。
月末、無事に退院した。子供が博士課程を早期修了するならばと、親は病院治療を早期修了した。今後はときどき病院に行って、何泊かして抗がん剤治療を受ける格好になる。
四度のお見舞いの最中、母との思い出を回想していた。ケンカをした記憶しか残っていない。
母との相性は、すこぶる悪かった。事あるごとにケンカをしていた。本当に親子なのかと疑ったぐらい、関係性は酷いものだった。母は日本語の文脈を介さない。単語に反応してブチぎれる。私は文章を理解してほしい。母は単語しか理解できない。そりゃあね、意思疎通できるわけが無い。「私に分かるように言わないアンタが悪い」とまで言われ、顔面に左ストレートをお見舞いされた。
ケンカの最中、母から決まって「お前なんか産まなければよかった」と言われた。一度ではない。何百回も言われた。おそらく本心だったのだろうと思う。「お前なんか産まなければ…」と言ったあと、母は急に泣き出して、自室にこもる。こういう時に限って、タイミング悪く父が仕事から帰ってくる。父から「なんでお母さんを泣かせたんや!!」とボコボコにされた。事情を説明しても聞いてくれない。自分は家の中で ひとり だった。
母子でケンカをするたび、母のヒステリーに振り回された。大学受験のときも散々苦しめられた。私が自室で勉強していると、10分ごとに些細なことで話しかけてくる。「勉強中だから後にして」と返すと、「どうしてお母さんの言うことを聞いてくれないの!?」と金切り声を上げられ、勉強にならなかった。仕方がなく、母が寝ている早朝に勉強するスタイルに切り替え、学力を高め、京大実戦模試で農学部A判定をとった。それでも試験本番で落ちた。受験直前期、母が1日おきにケンカを売ってきて、精神をかき乱してきやがったから。
博士課程一年次のイギリス留学前も酷かった。気分よく留学準備をしていたら、急に母から超長文のお気持ち表明LINEが送られてきた。無視していると、超々長文LINEが送られてきた。二行で返すと、大激怒され、渡航前々日まで言い合いになっていた。どうしてこんなに過干渉なのだろう。どうして子供をいつまでも支配下に置こうと(置けると)思っているのだろう。
母は精神的に未熟だった。あまりに幼稚で、生き方が稚拙だった。毎日、昼に韓国ドラマを見て、幼稚さとヒステリーを加速させていた。そんなんだから、子供に向かって平気で「産まなきゃよかった」と言えるのだろう。存在意義を否定される側の立場になってみろよ。こっちがどれだけ辛かったと思っているんだ。この前、小学校時代の夏休みの日記帳を見たら、何ページごとかに「死にたい」と書いてあってビックリした。博士課程から始まったと思っていた希死念慮は、実家にいたころ、10歳になるずっと前から種が蒔かれていたのだと知った。
幸い、母の症状は回復した。本人は「まだ生きられる^ ^」とご満悦だ。別に親に死んでほしいとは思っていないので、「良かったね」とだけ返しておく。
悪性リンパ腫は完治しない。症状が緩んで寛解はするけれども、いつまたぶり返すか分からない。今後、母は、病気再発の恐怖と闘いながら生きていく。日々を生き抜くので精一杯になる。何のわだかまりもなく開放的な気分に浸れる日は訪れないだろう。
私は母に一度でいいから「産んでよかった」と言ってもらいたかった。自分へ命を与えてくれた存在に、自身の存在意義を認めてもらいたかった。弊社でのんびり働いてくうちに、希死念慮の火種はだいぶ小さくなった。誰かに「生まれてきてくれてありがとう」と言ってもらえたら、おそらく完全に鎮火するだろう。願わくば、母の口から聞きたい。死ぬ前にひとこと言ってもらいたい。
…おそらく相当な高望みなのだろう。普通の家庭では当たり前に受けられる無償の愛を受けさせてくれなかった親だ。まして、いまは持病と闘っている。そんな母に何か望みを持っても無駄だ。私は条件付きの愛しか知らない。無条件で愛してもらえたことが無い。どれだけ努力しても、どれだけ叫んでも、親からの愛を受けられなかった。退院した母が笑顔を浮かべる様子を見て、喜び半分、悲しさ半分で、なんともやるせない気分になった。
私のほかに、母から何百回も「産まなきゃよかった」と言われ、傷つけられながら育った方はおられるだろうか。少なくとも、私は私以上に親から傷つけられた人間と会ったことがない。
不幸の連鎖を、断ち切りたいと思った。自分は幸せにならなくてもいいから、周りにいる人に、温かい気持ちになってもらいたい。
私は「生まれてよかった、楽しかった」と思ったことがない。今まで約28年生きてきて、苦しくて辛いことだらけの日々だった。生まれてこなければよかったと思うことはあっても、生まれてきてよかったと思ったことは無い。自分の存在意義を見出せない以上、妻や子供を持とうとは思わない。自分には、自分以外の存在を背負い、大切にする力が備わっていない。
これまで、存在意義を見失う辛さを嫌というほど味わってきた。だからこそ、自分の周りにいる人には、自分と同じ気持ちを味わわせたくない。
周りにいる人には「生まれてきてよかった」「この道を選んでよかった、かも」と思える人生を送ってほしい。自分にしてあげられることは少なさそうだけれども、私が誰かに助けてもらった際は、思いやりと温かい感謝の言葉を伝えたい。もし伝えても良さそうな雰囲気だったら、「生まれてきてくれてありがとう」とも付け足したい。自分が言ってもらいたかった言葉を目の前の人に届け、相手と過去の自分の魂が昇華されますようにと祈りたい。
与えてもらう期間は終わった。残りの人生は、これまで培ってきたものを周りに伝え、届ける期間にしたい。私は一人っ子である。自分の家系は、自分で最後となる。自分が天国に行ったとき、ご先祖様から「君が最高傑作だった」と褒めてもらえるような、誰にも恥じぬ生き方をしていこうと決めている。
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