【論文】インパクトファクター至上主義の3つの問題点

こんにちは!札幌と筑波で蓄電池材料研究をしている北大化学系大学院生のかめ (D2)です。M2の10月、インパクトファクター (IF) 24の国際雑誌に筆頭著者として論文がアクセプトされた経験があります。

私の指導教員が最近、「IFの高い雑誌へ論文を投稿しようよぉ」と私へせがんでくるようになりました。怖いですね。怖いことこの上ありません。先生は高IFの雑誌にしか出させてくれない『高IF至上主義』の持ち主ではありませんが、少し間違うと至上主義者になってしまいそうで戦慄しております。

この記事では、高IF至上主義の問題点を学生目線から3つ解説します。

  • 指導教員が高IF至上主義者の方
  • 高IF至上主義に陥ってしまっている学生さん

こうした方々にピッタリな内容なので是非最後までご覧ください。

かめ

それでは早速始めましょう!

目次

学位取得が遅れる可能性がある

一般に、雑誌のIFが高ければ高いほどアクセプトまでに要する期間は長くなる傾向が。IFの高いジャーナルほど投稿論文に求める水準が高いためです。IFの高さは雑誌の格の高さの目安。つまり、査読が厳しくなるということ。私の属する電池系コミュニティーの場合、

  • IF5程度の標準的な雑誌:1~2か月程度の査読期間
  • IF50 overのNatureやScience:半年から1年もの査読期間

となっております。IFが違えば査読の要求水準も全く異なっているのです。

丁寧に厳しく査読して下さるのは大変ありがたいことです。投稿論文をより良くするためのヒントを沢山いただけるワケだから。ただ、時間があまりにかかり過ぎるのは院生にとっては困りもの。博士課程の学生の場合、一本の論文に査読だけで半年や一年もかかっていたら3年で修了できなくなります。最終年度の終了ギリギリまで無駄にメンタルを消耗させられる。長期間粘れば”必ず”アクセプトされるなら頑張り甲斐もあるのだけれども、粘った末にリジェクトを食らえば莫大な時間と体力が無為に… 標準的な雑誌に投稿していれば3年で出られた人間が、高IF至上主義に振り回された挙句、4年目(オーバードクター)に突入。卒業が遅れても問題ない学生/教員以外は博士課程の後半に高IF雑誌へ執着しない方がベター。

高IF至上主義者の指導教員に卒業を送らせられてしまったとしても、教員は学生がオーバードクターになった責任を取ってくれるとは限りません。「自己責任でしょ?」と言われて見捨てられる可能性を十分考慮し、教員が高IF雑誌へ投稿しようとするのを諫める勇気を持つのも必要です。

“高インパクトジャーナルこそ全て”という偏見が根付く契機になる

指導教員による洗脳、あるいは研究室全体を取り巻く雰囲気に呑まれることで、いつの間にか自身が高IF至上主義者になってしまっている可能性が。「NatureやScienceこそ全てだ。低IF雑誌なんかに出しても仕方がない!」と極端な思想に走りかねません。高IF雑誌にアクセプトされた経験が一度でもあるならまだ良いんです。アクセプトしてもらえる論文の質や水準を肌で感じて知っているから。低IF雑誌にさえ受理されたこともないのに至上主義者になってしまう学生がいる。もうおしまいです。矯正は不可能。散々痛い目に遭っていただき、自身の勘違いに自らハッと目覚めるのを遠くから見守るしかありません。

IFはあくまで論文の質や要求水準を見積もるための指標の一つ。IFが高い雑誌にアクセプトされたから偉い、、、だなんて論理は成り立ちません。低IF雑誌だろうが高IF雑誌だろうが、科学の神様の前で全論文は同じ価値を持つのです。発見した物事の現時点でのインパクトに応じて身の丈に合った雑誌へ投稿するだけだから。仮にいまは自身の発見がインパクトが”低い”発見と見なされていたとします。しかし数年後、ひょんなことから注目され、日の目を浴びて科学界の主流の研究となりうる可能性を秘めているわけです。よって、低IFジャーナル、および低IFジャーナルでしか出版したことのない学者を見下すだなんてありえない。高IF至上主義に陥るといびつな科学観を持ちかねないのが問題

高インパクトジャーナルの論文内容を盲信するようになる

論文は教科書ではありません。「へぇ~。本当だったら面白いね♪」と話半分に読むべきものです。ノーベル賞を取った本庶さん曰く、Natureに載っている論文でも9割は怪しい研究のよう。捏造された結果や再現不可能なデータがたくさん載っているらしい。ウソを真に受け妄信すると、自身の研究の調子が少なからず狂わされてしまいます。論文は「コレ、本当かなぁ…?」と常に疑いの目を持って慎重に読まねばなりません。ウソを見破るぐらいのつもりで超批判的に読むのが重要。

高IF至上主義に陥れば論文に対する疑いの目がついつい曇ってしまいがちに。盲点になりやすいのです。自分が至高の価値を置くモノにまさか偽物が混じっているとは予想だにしないから。プライドの高さがめくらを加速。コロッと簡単に騙され、偽物を自身の論文で引用してしまって論文に傷を付けてしまいます。論文を批判的に読むにあたり、高IF至上主義は有害極まりありません。私としては「百害あって一利なし」だと思いますが、皆さんは如何でしょうか?

修士課程の間ならば高IFジャーナルへの挑戦はアリ

私が指導教員に感謝しているのは、博士ではなく修士の間に高IFジャーナルへ挑戦させてくれたこと。修士だったら投稿論文数がゼロ本でも修了できるため、高IF雑誌へ投稿後、時間的制約を受けずに粘ってアクセプトまでこぎつけられるのです。私自身、修士の間だったら高IFジャーナルへの挑戦はアリじゃないかと考えております。博士の間は本当にやめて欲しい。心臓に悪くて堪りません。いずれにせよ、自分自身の中で高IF至上主義を抱くのはお好きになさって下さい。「高IFジャーナルに投稿できるよう頑張ろう!」と良いモチベーションになりますから。しかし、それを他人に押し付け、果ては博士学生の修了を遅らせる結末を招くならダメ。高IF至上主義の使い方を幾らか誤っているのではないかと思います。

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