アカデミアに残りたくなかった5つの理由【休日出勤・不安定な待遇】

こんにちは。札幌と筑波で蓄電池材料研究をしている北大化学系大学院生のかめ (D2)です。就活時、博士修了後の進路について毎日思いを巡らしていました。

修士時代から一貫して「アカデミア (国内外の大学)には残りたくない」と周囲に漏らしてきました。大学教員職に対する憧れが全くのゼロ、皆無なのです。

この記事では、私がアカデミアに残りたくないと考える5つの理由を記します。

  • 大学院進学を検討中の方
  • 進路を考え中の博士課程学生の方

こうした方々にピッタリな内容なので是非最後までご覧ください。

かめ

それでは早速始めましょう!

目次

休日が無い業務形態に体が疲弊し悲鳴を上げる

身の回りの大学教員はもれなく全員、休日にも大学へやってきて忙しなくデスクワークをしていらっしゃいます。論文を書いている場合もあるし、諸々の申請書の執筆や大学/学会運営関連の仕事 (いわゆる雑務)をしている場合も。論文を書くのは構いません。研究が好きで好きで堪らなくって休日にも書かずにはいられないのでしょう。しかし、どうやら違うみたい。論文執筆よりも運営関連の仕事に時間の多くを割いていらっしゃるよう。”研究者”とは名ばかりに、研究に費やせる時間は全体のごくごく僅かといった所。研究をしたいと思って教員になったら研究が出来ない…という話

教員一人に割り当てられる業務量があまりに多すぎるのです。とてもじゃないけど研究に集中できる環境ではなさそうに見えますもしも研究をしようと思えば土日を返上して行わねばならない。事実上休日など無い業務形態に強い違和感を覚えます。人間は機械じゃありません。週に1~2日は休まねば早晩、体を壊してしまいます。でも教員になったら休めません。休んだら研究が進まないからです。現在私は博士学生。休日を返上して研究室へ足しげく通って働いています。毎日大学で仕事できるのは若くて体力が十分あるため。30代や40代になっても同様の生活スタイルを維持できるとは思えません。事実、ストレスをため過ぎてM2の8月、自宅で喀血してしまいました。このように、ストレス過多な状況に身を置くと人間の体は必ず悲鳴を上げます。たとえ壊れるほど働いたって次から次へと仕事が降ってくるでしょう。そんなの絶対に耐えられない。だからアカデミアには残りたくありません。

無期雇用に切り替わるのが30代半ば〜40代。もしもテニュアトラックに乗れなかったら…?

博士課程を修了してすぐ教員になれるのは稀なケース。大半の方は博士研究員 (ポスドク)として国内外の研究機関で武者修行をします。ポスドクは2~3年の任期付き研究職。満期まで雇ってもらえる場合もあれば、雇用主の研究費が枯渇し途中でクビを切られてしまうことも。そう、非常に不安定な境遇なのです。明日をも知れぬ不安な状況で闘い、血路を切り拓かねばなりません。

やっとの思いで論文を出版。いざ、助教の公募に応募してみましょう。ざっと20程度の公募を見ると、どれも教員の募集は各研究室で1名限り。これまでいくら優れた研究業績を挙げてきたとしても、応募者の中でNo.1の人材でなければ選ばれないのです。No.2では採用されません。2位では絶対にダメなのです。こんなのほとんど『運』勝負じゃないか。目指してどうにかなるという話では無さそうに感じてしまうのです。「公募は出来レースだ」という話もある。公募が出た時には既に内定者が決まっており、一応公募をかけて”選抜しました”という既成事実を作るためのもの。であればどれほど時間をかけても大学教員職にはありつけないでしょう。藁にもすがる思いで宝くじに当たるのを待つだなんてできない。

ポスドク期間を潜り抜けて教員職に就けるのは凡そ30代後半。運が悪ければ40代に入っても助教に就けていないかも。最近は助教職、さらには教授でさえもが5年程度の任期付き。無期雇用に切り替わるテニュアトラック枠は必ずしも全員分は設けられていない。いつまでたっても落ち着けません。博士修了後、その場しのぎのような生活を一生続けなきゃいけないかもしれない。流石にそれは辛すぎます。私にはできそうにありません。SNSでは事あるごとに日系企業がJTC (Japan Traditional Company, デントー的な日系企業)と揶揄されている。しかし、ほぼすべての企業が任期無しで雇ってくれるのだから、アカデミアよりもよっぽど安心感を持って生活できると思うのです。

研究費を引っ張ってくるには、やりたい研究ばかりやる訳にはいかない

アカデミアのメリットとしてよく言われるのが「研究の自由度」。企業では商売に繋がる研究しかやらせてもらえないのに対し、大学では商売ほぼ度外視で純粋に科学を追求できる、というもの。…果たして本当にそうでしょうか?アカデミアで行える研究の自由度ってそんなに言うほど高いでしょうか?

大学だろうが企業だろうが、研究へ取り掛かるにあたって幾らか研究費が必要です。企業の場合は会社のお金から、大学だと寄付金や科研費、時には自らの給与からお金を捻出します。もしも企業で研究するのなら、会社の利益に即した研究であればじゃぶじゃぶとお金がそのテーマに注ぎ込まれます。一方、大学で研究をするならば、大学からの雀の涙ほどの補助金は期待できません。よって、会社へ営業したり申請書を書いたりしてお金をどこかから引っ張ってくる必要が。その際、「自分はコレをやりたいんだ!」と知的好奇心だけを前面に押し出す訳にはいかぬでしょう。相手や社会の実利にかなった研究へと方向性を整えねばなりません。そうでもしなくちゃ外からお金を引っ張って来られないからです。

やりたい研究をやりたい放題アカデミアでやらせてもらえるとは思えません。誰かのお金を使って研究する以上、誰かの役に立つ (と見込まれる) 研究をしなくちゃ研究を始められさえしないからです。大学への交付金が多額だった時代であれば、やりたい研究をやりたい放題やってもお金に困らなかったでしょう。今の時代は違います。学会出張費やコピー機の修理にさえ青息吐息な現状ですから。どうせ研究の自由度に制限がかかるならば、研究費を引っ張ってくるのが大変なアカデミアでわざわざ働きたいとは思えません。企業に行った方が楽しく快適に研究させてもらえるのでは…?と考えるのです。

投稿論文の本数やインパクトファクターを競い合う不毛さに絶望…

我々研究に携わる者がどうして研究をしているかと申せば、自らの研究で社会を良くしたい、人類の知的フロンティアを開拓したいと心の底から願うからです。強い信念が無ければ”週末も働こう”とはまず考えませんもの。人間誰しも、『誰かの為に』と奮戦するとき最大の力を発揮します。家族の為に、社会の為に、まだ見ぬ未来の子供たちの為に頑張るしかないなと、毎日ヘトヘトになりながらもどうにか正気を保っていられるのです。

アカデミアにいらっしゃる研究者さんらの真摯な姿勢には日々感服させられています。しかし、コレだけはどうしてもいただけません。誰かと研究業績を競い合うのって果たして何故なんですか?

  • これまで投稿してきた論文の本数
  • 出版論文のうち最高のインパクトファクター (IF)

など、事あるごとに”数”を比較して誰かと優劣を付けようとするのです。まるで大学受験生のよう。試験の点数や偏差値、大学の判定を周囲の学生と比べ合っている様子と同じ。だいたいですよ、雑誌のIFなんかにこだわってどうするつもりなんですか?「一流ジャーナルじゃないとダメ!」という思想は、言葉を入れ替え「一流大学に行かなくちゃダメ!」とそのまま同じ意味でしょう。研究の成果を載せるならそれ相応の身の丈に合ったジャーナルへ投稿しましょうよ。頭の出来が悪いのに一流大学ばかり受験して不合格を連発する受験生みたいになっちゃいますもの。どうしても比較したいなら論文の引用数を比べませんか?どれだけ業界の役に立ってきた研究かが一目瞭然だからです。もちろん、研究分野が少し違えばプレイヤーの数も違うだろうし、論文の本数や引用数を単純に比較することはできません。そう、比較なんかできないんですよ。できないものをやろうとしているから変だなぁと思うのです。

何かと比較したがる気持ちは何となく想像がつきます。研究の世界は他の研究者との競争 (つまり比較)で成り立っていますもの。教員や科研費の公募はもちろん、論文出版の早ささえもが競争に晒されている。相手に先を越されたが最後、自分の立場さえ怪しくなってしまいますから、相手のことが気になって気になって仕方がないのも同情します。しかし前述のように、研究は本来、誰かを蹴落とすためにやるモノじゃありません。社会を変えたり好奇心を追求したりするためにやります。IFでマウントを取り合ったとしても社会の実利には一ミリも繋がらないんです。マウンティングがあまりに不毛すぎてアカデミアにさほど魅力を感じられません

かめ

他人にマウントを取るアカデミア研究者の姿をSNSで見たのもアカデミアを避けた理由の一つ。SNSでバトルしている暇があるなら研究なさってはいかがでしょうか?

働き始めるまで自分の給与が分からないってどういうこと?

最後にちょっとよく分からない話を。

未だに信じられないのですが、仮にアカデミアで職を得られても、勤務が始まり給料日が来るまで自分の給与が分からないケースがあるらしいです。通帳記入したり明細を貰ったりするまで給料が通知されない例があるよう。たとえどんなブラック企業でも求人票には月給が書いてあります。まぁ、嘘のケースもあるようだけれども笑、少なくとも給与が書いていないってことは絶対にあり得ない (←法律違反だから) のです。

給与、当然知りたいですよね?求人票に書いていないものだから面接で「お給料っていくらなんですか?」と問うてみる。そうしたらなんと、「キミはお金の為に研究者になるのか?!」と面接官の教員にブチギレられた方がいるらしい笑。理不尽極まりないでしょう。霞を食って生きていけと云うのか。一般社会とアカデミアとでは感覚が著しく乖離しています。ハッキリ言って怖い、恐ろしいです。お金が無くては生きて行けないのに、収入が何円なのかさえも勤務前に教えてもらえないだなんて… 給与が分からないアカデミアの求人に応募するより、給与が明らかな企業の求人に応募するのが自然な流れ。どう考えたっておかしいもの。人生設計さえままならないアカデミアに残りたいとはどうしても思えません。

最後に

私がアカデミアに残らない理由は以上5つ。まとめると、

  1. 休日が無い業務形態。体が疲弊し悲鳴を上げる
  2. 無期雇用に切り替わるのが30代半ば〜40代。不安定な境遇が長く続く
  3. やりたい研究ばかりやる訳にはいかない。研究費を引っ張ってくるには社会の実利に繋がらねばならない
  4. 論文の本数やIFを競い合う不毛さに絶望。研究ってマウントを取り合うためにやるものじゃないでしょ
  5. 働き始めるまで自分の給与が分からない。ちょっとナニイッテルカワカラナイ…

このような形になります。

私は大学院修了後、企業に勤めて電池の研究や開発に携われたらなと考えています。大学院より人間の生活に近い場所で人民の呼吸を感じながら社会の為に働いていきたいです。

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