ミソフォニア (音嫌悪症) なら幸せを再定義するしかない

こんにちは。札幌と筑波で蓄電池材料研究をしている北大化学系大学院生のかめ (D2)です。特定の音をトリガーに意図せず激しく苛立ったり悲しくなったりする『ミソフォニア (音嫌悪症)』に高校二年次から10年以上苦しめられています。

ミソフォニアの症状が酷くなった研究室への配属以来、ほとんど毎日のように「幸せって何なのだろうなぁ…」と考えさせられています。 (音に煩わされ続けているこの日々に果たして『幸せ』なんか訪れるのだろうか?) と。いったい何回命を絶ちたくなったか分からない。嫌な音を聴いて感情が暴走するたびに”もうイヤだ!!”とシャーペンで鼓膜を突き破りたくなる。「生きていればそのうち何か良いことが起こるんじゃないかな…」と期待して踏みとどまっているにすぎない。死んだら何もかもがおしまいだ。死んだら負け。だから生きている。

この記事では、我々ミソフォニア患者にとっての『幸せ』について皆さんと一緒に考えていきます。辛い日々を送っている我々全員で生きる意義を見出していけたら幸いです。

かめ

それでは早速始めていきます

目次

オレたちは世間で言われている『幸せ』を”幸せ”と受け取れないかもしれない

健常者とミソフォニア症候群の人間とでは音の受け取り方が正反対。健常者が雑音として容易に処理可能な音声でさえ、ミソフォニアにとっては動悸や絶望など激しい感情を引き起こすトリガーになりかねません。世間で”普通”や”人並み”と形容される『幸せ』を我々ミソフォニア患者は”幸せ”と受け取れないかもしれないのです。幸せを噛みしめるどころか、 (地獄だ。もう勘弁してくれ…) と泣き出したくなってしまう可能性があります。

多くの健常者さんは【大企業】から内定を貰った際、おそらく諸手を挙げて大喜びするでしょう。高年収に手厚い福利厚生。将来は安泰。順風満帆で手堅い人生じゃないか^ ^、と満面の笑みでお喜びになるはず。ミソフォニア患者の受け取り方は違う。 (四方八方から音に攻撃され、早晩ノイローゼになって倒れてしまわないか…) と怯える日々が始まるのです。そりゃもちろん、ミソフォニアの人間だって大企業から内定を頂けたら嬉しいですよ。その嬉しさの度合いを二ケタも三ケタも上回る圧倒的恐怖が心中を占めてしまうものだから辛い。入社後、デスクワーク中に音へ悩まされる日々が始まります。鼻をすする音、咳払いの音、貧乏ゆすりの音などが次から次へと飛び込んでくるでしょう。トリガー音を1つ聴くたびに辛さのボルテージが一段、また一段と高まっていく。こんなしんどさに耐えるだけの人生の何処に『幸せ』を見出せるのか分からないのです。

もしくは【子供】でも構いません。世間では子供を”天からの授かりもの”、つまり『幸せ』と定義されております。ぷにぷにな体。あどけない表情。ハイハイしかできなかった子がある日、急に立ち上がった時の興奮… 夫婦で一緒に子供を大きく育てていくのはプライスレスな営みだそうです。私自身、両親からも常々「子育ては楽しいぞ~」と言われてきました。しかし、もし健常者ではなくミソフォニア患者が親になったらどうでしょうか?きっと赤ちゃんの泣き声やぐずり声がトリガー音となるに違いありません。子供が成長して泣かなくなるまでの間、死んだ方がマシなほどの辛い思いを味わい続けるでしょう。そんなの容易に想像を付けられる。育てなくても分かるよ、絶対に辛いのだろうなって。事実、飛行機内にて近くの赤ちゃんが泣きだしたときは毎度、苦痛に耐えかね耳を塞ぎ、頭を抱えて吐き気を催してしまう。あれほどの苦痛を3年も味わわねばならないんでしょう?耐えられないよ。絶対に無理。子供を授かる『幸せ』を享受するのはなかなか難しそうです。

このように、世間で当たり前のように”幸せ”と定義されている『幸せ』が我々にとって必ずしも”幸せ”であるとは限りません。宝くじで一等が当たればそれはまぁ、幸せと言えるかもしれないけれども、人とかかわりのある『幸せ』の大半は我々にとって”不幸せ”を意味します。

ならば自分自身で幸せの意味を再定義するしかない

世間やマスメディアに定義されたステレオタイプの『幸せ』を追いかけても仕方が無いんですよ。だってそりゃそうでしょう?我々ミソフォニア患者と健常者の脳とではその構造がまるで異なっているのだから。いくら皆の羨む大企業に入社しようとも、周囲から音の集中放火を被弾したら耐えかね、退職してしまいます。もしも結婚して子供を授かったなら、今後3~4年にも及ぶ長い生き地獄が確定的になる。それでも皆さんは世の中で謂われている『幸せ』に固執なさりますか?死んだ方が楽になるほどの辛さを甘受してまで『幸せ』を追い求めますか?果たしてそれで本当に幸せになれるのでしょうか?どれだけ『幸せ』を追い求めたとしても幸せになれるとは限りません。残酷なことに、『幸せ』は各人の幸せを必ずしも保証してくれないのです。『幸せ』を掴んで不幸せになった所で『幸せ』を追い求めるのに要した歳月は戻ってきません。

それでも『幸せ』を追い求めるのも一興。私はその方法を採らず、”幸せ”という言葉の意味を自ら再定義することにしました。

大企業に入るのが必ずしも幸せではありません。結婚するのが幸せ…とも無条件には位置付けません。自らを縛っている世間体や固定観念を一度粉々にぶっ壊す。頭を真っ新な初期状態に戻し、潜在意識の奥底から聞こえてくる心の叫び声に素直に耳を傾けてみるのです。おそらく、今まで心の中にしまい込んでいた願望が顔をのぞかせるでしょう。何やら奇天烈なアイディアが思い浮かび、自身の可能性に目を見開かれる思いをさせられるやもしれません。自分は本当は何をしたいのだろうか?何がしたくないか、でも構いません。常識にとらわれず、ゼロベースでじっくりと考えてみれば、自分の人生を少しでも幸せにできる方法を何個か見つけられるはずです。

私にとっての幸せとは何か?

私にとっての幸せとは、【日々最善を尽くして生きていくことです。最善を尽くして生きる姿勢自体に人生の価値や幸せを見出していきます。結果はどうなろうとも構わない。最善を尽くせたならばそれでOK。試験やプレゼンで結果を出せる/出せないは外的要因に左右されるのである意味、仕方がない側面もあるでしょう。しかし、本番に向けた準備へ最善を尽くすぐらいならばいつ・如何なる時でも可能なはず。

結果が出なくてもいいとは思っていません。本番に向けて最善を尽くすのは、あくまで本番で最高の結果を叩き出すためだもの。しかし、ミソフォニア患者である都合上、準備期間や本番中にどのような悲惨な目に遭うか分かりません。問答無用に素晴らしい準備ができていたとしても、本番でトリガー音を聞いたが最後、何もかもがぶっ壊れて最悪の結果しか出ないかもしれないから。理不尽極まりない人生だからこそ、最善を尽くせた自分に最大級の賛辞を送ってあげたい。一日の最後に「今日も頑張ったな。自分、やるじゃん♪」と自分を褒めてあげられたなら気分良く眠りに就けますし。

最善を尽くす対象として、大学院修了後、地元・広島の大企業を選びました。あれほど口酸っぱく「大企業へ行っても幸せになれるとは限らないよ」と言っておいて”行くんかい笑”って話なんですけれども、『地元のために』と特別な感情を抱けば一層がむしゃらに働いていけそうじゃないかと考えたのです。ミソフォニアの症状で体が潰れてしまっても構いません。その時はまぁ、その時ですよ。ブログや書籍でも書き、細々と稼いで暮らしていきますから。ちなみに私の来年4月からの仕事はオフィスよりも工場内での勤務が中心のよう。トリガー音に煩わされる時間が今の研究室での生活よりも幾らか減って楽になるのではないかと見込んでいます。

子供は…無理でしょう。叫び声云々の前に、私のミソフォニアの遺伝子を我が子が引き継いでしまう可能性があるからダメ。私は父親からミソフォニア遺伝子を引き継ぎました。父の持つX染色体が父の子 (私) をミソフォニアにするようプログラムされていたのだと思います。私自身のX染色体にもミソフォニアの情報が含まれているかもしれません。もしその仮説が正しければ、私の子供が男児なら100%ミソフォニアになってしまうでしょう。男児は父のX染色体と母のY染色体を受け継いで生まれます。女児は父と母それぞれのY染色体を受け継いで生まれます。私のY染色体にまでミソフォニアの情報が含まれていれば、女児でさえミソフォニアになってしまう可能性がある。ミソフォニアの遺伝子は私の代で断ち切らねばならない。犠牲者をこれ以上増やさないために。苦しむ子を生まれさせないために。

結婚はしたい。音に理解を示してくれる優しい彼女を広島で見つけられたら幸いです。まぁ、あまり期待はしていません。これから死ぬまでずっと彼女が出来なくても仕方が無いと思っています。もしも運良く結婚することができたなら、嫁さんを乗せて海沿いへドライブに繰り出したいです。広島のしまなみ海道 [写真]や山口の角島大橋 [写真]へ女の子と二人で車に乗って行ってみたいんですよね…

最後に

我々ミソフォニア患者にとっての幸せとは何かについて考えていきました。

人と同じレールに乗って走っても幸せを掴めない以上、自分の意志でレールを降り、「何が幸せなのだろう?」と冷静に自問してみるのが大切です。皆さんそれぞれが幸せに辿り着くお手伝いが出来たならこれ以上ない幸いです。

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