「研究は役に立たなくてもいい」は研究者が言ってはいけないセリフ

北大博士課程を一年短縮修了した技術開発エンジニアかめです。

学生時代、ラボや学会をはじめ、アカデミックな集まりでよく耳にするセリフがありました。「研究は役に立たなくてもいい」と何度聞いたか分かりません。研究は必ずしも成功するとは限らない。どの研究が将来役立つかも不透明。最初から”役に立つ”を目指していてはダメ。ブームに乗らず、目の前の仕事を淡々とやっていこう。「役に立たなくてもいい」とは、このような文脈で言われています。

「研究が役に立たなくてもいい」と学者の集まりだけで言われているならば構いません。アカデミアの外で、たとえばSNSで学者が堂々とおっしゃるから恐ろしい。そんなの、反感を買うに決まっているじゃないですか。

多くの人々は日々の暮らしに精一杯です。役に立たないかもしれない研究が、外からは遊びのように映ってしまうこともあります。無邪気な発信が予期せぬ反発を呼ぶ場面も見受けられる。アカデミアの住人は恵まれています。学者さんが一般人の感覚を持ち合わせていないがゆえに起こる悲劇でしょう。

「研究は役に立たなくてもいい」と研究者側が言ってはいけません。心の中ではそう思っていても結構です。日本では憲法で思想の自由が保障されています。対外的には「○○の役に立ちます」と説明するべきでしょう。アカデミアの皆さまには、ご自身の言動が外からどう映っているか意識していただければ、と。

目次

科研費の財源は国債と血税

アカデミアに居る研究者さんは、みな苦労して今のポジションを確保なさりました。倍率何十倍もの公募を勝ち抜いて職を得られたのです。学者さんの研究力は素晴らしい。才能と、それを磨き上げるための果てしない努力をなさってこられたのでしょう。「自分は他の人とは違うんだ」と優越感を抱いても不思議ではありません。むしろ、多少のエリート意識は不可欠。皆さんの研究の趨勢には、我が国の将来が懸かっていますから。

研究者さんのお仕事は研究です。それでは、研究の原資は何でしょうか? 大学からの交付金。企業との共同研究費。あるいは自腹。色々あると思います。

研究費のうち、決して無視できない割合を「科研費」が占めます。科研費は、日本学術振興会から支給されるお金です。科研費の原資は国債と血税。国債は資産だから良いとしましょう。血税とは、所得税や消費税など、日本国民の労働から賄われるお金。我々日本国民は、政府から日々たっぷり税金を取られます。ヒーヒー言ってやっとの思いで稼いだお金からゴッソリ控除されるのです。

アカデミアの研究は、血税を原資に行われます。本来は労働者の手に渡るはずだったのに渡らなかったお金を用いて。そのお金が労働者の手元にあれば、食べたいものを我慢せず食べられたはず。行きたい所にも行けた。冷蔵庫やエアコンを買えた。控除されたから使えなかった。税金支払いのせいで汲々と暮らす会社員さんは山ほどいます。それでも皆、頑張って働いている。日々を食いつなぐために。子供を育てるために。

民衆が色々な思いを抱えて支払う血税。それを「役に立たなくてもいい」とヘラヘラされながら研究に使われたらどう感じるでしょうか。
納税者の立場からすれば、強い疑問や苛立ちを覚えるのも自然なことでしょう。「自分たちは苦労して税金を納めているのに、このお金はどこへ向かっているのか」と問いかけたくなるはずです。税金の支払いは国民の責務。どれだけ文句を言っても払わねばなりません。渋々払った血税の用途がコレでは納税者が浮かばれないでしょう。私もアカデミアから離れてから「研究は役に立たなくてもいい」と聞いたとき、頭に血が上りそうになりました。

研究者は研究意義を説明する義務がある

研究者の仕事は研究だと述べました。正確に言えば、もう一つあります。自身が研究する意義を分かりやすく説明すること。研究成果が社会にどのような良い影響をもたらすのか。自分の描く未来社会とはどのようなものか。ご自身のお言葉で民衆に説いていただきたいのです。

対面イベントでなくとも構いませんよ。研究室ホームページで論文解説ページを作ってもいい。実験の様子を流せる範囲でYouTubeで流してもいい。何でもいいから、何らかの形で社会との接点を作っていただきたい。研究成果が何らかの形で「役に立つ」のを社会に証明してもらいたいのです。

研究意義を説明する活動を「アウトリーチ」というそうです。日本のアカデミアは海外と比べ、アウトリーチが著しく欠けているように感じます。職人肌の学者さんが多いのでしょう。研究の輪が学術界で閉じてしまっている。もっと輪を広げればいいのに。アカデミアと企業、アカデミアと民間人、アカデミアと官庁など、様々な所で接点が生まれます。それこそが色彩豊かな社会をもたらすのです。学術研究の意義や博士号の価値も民間へおのずと広まっていくのではないでしょうか。

研究者さんの本業は研究。本業をやったうえでアウトリーチ活動もしていただければ、と。アウトリーチにばかり精を出されては困りますよ。本業での成果創出もなにとぞお願い申し上げます。時々いるじゃないですか、アウトリーチばかりやっているタレントのような学者さんが。画面越しにどれだけ能弁に語ってもダメ。研究をちゃんとやっていなければ、成果の浅薄さは国民にちゃんと見破られるでしょう。

「役に立たなくてもいい」を語る資格は誰にあるのか

「研究は役立たなくてもいい」が真に意味を持つのは、研究者本人が口にしたときではありません。アカデミア外の人々が言ったときにこそ意味を持ちえるでしょう。

民間企業の人が「研究はすぐに役立たなくてもいい」と言えば、それは期待と余裕の表れです。企業は短期的な利益に直結しない基礎研究を支援する立場にあります。国民が「研究は役立たなくてもいい」と語るなら、それは研究の自由を尊重する高い理解の証です。しかし、当の研究者本人がこの言葉を使ったらどうでしょうか。それはもはや責任の放棄に近いものです。胸の内にある自由な探究心は、否定されるべきではありません。ただ、それは自分の中に秘めておくべきです。他者からの理解や支援は、努力して勝ち取る必要があります。

研究活動は、社会の支えがあってこそ成り立つ営為。研究者が自由に探究を続けられるのは、研究成果が社会のイノベーションのタネになると信じられているから。研究にどれだけ公的資金が投入されているか。どれだけ国民の汗と涙の結晶である血税が使われているか。国民の期待の重みを忘れて「役に立たなくてもいい」と軽く口にすれば、信頼は一瞬で崩れ去ります。

本来、「役に立たなくてもいい」と語って構わないのは、外側にいる人たちです。研究の価値を認め、研究者を見守る立場から発せられる言葉だから。研究者自身がそれを防壁にしてはいけません。より高く、より広く世界を見据え、問いを深める努力を重ねていくべきです。学問の自由は保障されています。研究に対して誠実であることもまた研究者の責務ではないでしょうか。「自分の研究にはこういう価値がある」「今は役立たなくとも、将来こうした可能性を切り拓ける」などと語る努力を惜しまぬ研究者こそ、これからの未来を切り拓いていく存在なのでしょう。

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