会社からの帰り道、広島の河川敷を歩きながら、ときどき自問します。博士課程と会社員、どっちが楽しかったんだろう、と。
入社してから一年が経ちました。毎月の給料に慣れ、通勤にも慣れ、会議の進め方にも慣れてきて、生活の形はそれなりに落ち着いています。スーパーで値段を気にせず豚肉を買えるようになったのは、博士時代の自分からすれば快挙です。
それでも、河川敷を歩いていると、学生時代のことが頭に浮かびます。芝生とか、夜の実験室とか、指導教員の渋い顔とか。自分のなかで、博士時代に戻りたがっている部分と、絶対に戻りたくないと言い張っている部分が同居していて、両者の綱引きには決着がつかないようです。
博士課程と会社員生活はどちらが楽しいか。一年抱え続けたこの問いについて、頭のなかで整理がついてきたので、書き出してみました。
仕事や時間の自由度は博士課程のほうが圧倒的に高い
博士時代は一日の使い方を全部自分で決められました。朝から論文を読んでも、午後から芝生で昼寝しても、夜通し実験を回しても、誰にも咎められません。成果さえ定期的に出していれば、まとまった休みも好き勝手に取れました。北大中央ローン芝生はゆったり広くて、天気の良い日に寝転がって本を開いていると、学生の本分はこれだなという気分になれたものです。ありがとうございます。
ところが会社員になった途端、自由がものの見事に消えました。何をやるにも承認が必要で、思いつきで実験を回す身軽さはもうありません。電子部品ひとつ買うのにも書類を何枚も書かされて、書いているうちにそもそも何を買いたかったか忘れます。官僚制の勝利ですね。霞が関に向けて万歳三唱しましょうか。
会社では、業務の効率化が必ずにも自分へプラスに働くとは限りません。作業を早く終えられるようになると、空いた時間には新たな仕事がご丁寧に流し込まれます。頑張った人間にはご褒美に追加タスクが配給される仕組みで、早く帰ろうとするほど帰れません。画期的な設計思想ですね。創意工夫のモチベーションは、入社半年で失われました。
博士時代なら、なんでだろうと思った瞬間に、文献をあたって、実験して、その日のうちに答えを出せました。疑問をその場で潰せる環境にいたわけです。会社員にはそんな権限も時間もありません。上司に相談して、稟議を通して、予算をつけて、手順書を書いて……とやっているうちに、疲れて全部どうでもよくなります。気づけば、自分がもともと何に興味を持っていた人間なのか思い出せなくなりました。
経済的な面では会社員のほうがずっと余裕がある
とはいえ、「博士時代に戻りたいか」と聞かれれば、マッハ3で首を横に振ります。理由は単純で、お金がなかったからです。
博士課程では学振DC1として月20万円いただいていました。博士課程としては割と恵まれた待遇です、ありがとうございます。確かに恵まれてはいたのですが、社会的には貧乏そのもの。学生の身でも容赦なく税金と社会保険料が引かれるし、家賃と光熱費を払って、残りは食費と日々の出費でだいたい溶けてしまいました。貯金なんてほとんどできません。旅行も卒業旅行の一度だけでした。
会社に就職した途端、可処分所得は二倍になりました。スーパーで値札とにらみ合う時間が減り、栄養のある食事をとれるようになり、買い控えていた家具家電が少しずつ部屋に増えていきました。お金のことで神経をすり減らさずに済むようになり、いつも心が落ち着いています。お金があると余裕が生まれ、余裕があると他人に優しくなれます。昔の自分には想像もつかぬほど笑顔の多い毎日になりました。
会社員になってはじめて、自由ってお金ありきなんだなと気づきました。
博士時代の時間的自由はたしかに贅沢だった。でも、お金が足りないと、できることの範囲は限られてくるじゃないですか。平日の昼間に芝生で本を読めても、週末に遠出するのは難しいです。博士課程は自由だったけれども、自由の使い道を自由に選べない自由だったのかもしれません。自分でもちょっと何を言っているか分かりませんが、自由に見えて、意外と不自由だったってことかな。
どちらがいい・悪いでは片づけられない
お金を選べば仕事の自由を失いますし、知的好奇心を追いかければひもじい生活が待ち構えます。両者を兼ね備えたポジションがどこかにあるのかもしれませんが、少なくとも私の周りには落ちていません。まぁ、世の中そんなに甘くないですよね。
雇われの身でいる限り、不満は構造的に消えないのです。どこまでなら妥協できるかを毎日試されているのではないでしょうか。もしどうしても嫌なら、独立してフリーランスで活動していくしかない。
博士課程に進んで良かったと心から思っています。博士課程は楽しかったし、起きている時間の全てを自分のために使えるあの時間は貴重でした。ただ、脱アカして会社就職したのも後悔していません。会社は楽しくないけれども、お金のおかげで日々が充実しています。どちらがいい・悪いでは片づけられないんですよね。人生って、難しい。




















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