博士課程を修了する頃には、多くの方が二十代後半を迎えています。私の場合は27歳での修了でした。中には30歳を超えて学位を得る方も少なくありません。
博士卒と修士卒の間には数年の年齢差があります。学部卒ともなれば、ほぼひと回りの差。それでも企業に入れば、皆「新卒」として同じラインに並びます。けれども、博士卒は学士・修士卒と単に一括りにできる存在ではありません。雰囲気、活力、そして肌のハリまで、何もかもが少し異質に映るものです。
入社後、博士人材は他の同期と肩を並べて働いていきます。しかし、いつまでも“異質な存在”のままではいられません。彼らの中に自然と溶け込み、共に歩む努力が求められます。
この記事では、博士新卒が学士・修士卒の同期たちと良い関係を築き、職場で“仲間”として認められるための方法をお伝えします。博士課程を修了して企業へ進む方、また職場に馴染めず悩んでいる方に向けた内容です。ぜひ、最後までお付き合いください。
かめそれでは早速始めましょう!
博士は、学士や修士とは『違う』
博士号の取得は、まさに“長い峠越え”のようなものでした。どれほど地図を睨んでも、霧の中を歩くように進路が見えない時期がある。その果てに、ようやく一筋の光を掴むのです。
私自身、論文業績のノルマに追われ、心身ともに削られる日々を過ごしました。留学先では計画が頓挫し、ラボでは理不尽な扱いを受けたこともあります。けれども、それらを飲み込みながら進むしかなかった。博士課程とは、粘りと孤独の競技場なのです。
学士・修士の三年間で味わう苦労を“1”とするなら、博士課程の二年間は“10”にも“20”にも及びました。論文が連続でリジェクトされ、画面の前で血の気が引いた夜もある。胸に蕁麻疹を作りながらデータを積み上げた人も、きっと少なくないでしょう。
だからこそ、私たちは無意識のうちに、こう思ってしまうのです。「お前らとは、背負ってきたものが違うんだ」と。
その気持ちは理解できます。むしろ当然の反応かもしれません。しかし、社会に出た瞬間、その誇りが少々やっかいな荷物に変わるのです。
企業という場所では、学術的な序列や称号は通用しません。評価されるのは「結果」ただそれだけ。論文数も受賞歴も、採択通知のメールも、誰も気に留めません。「学振に通った」と言えば「そうなんですね」で終わりです。研究室で神のように扱われた過去も、社会に出ればただの前日譚となりましょう。
つまり、博士課程までの人生がどれほど壮絶であっても、会社では誰も知らないし、知る必要もないのです。少し寂しい話ですが、同時にそれは、自由を得る瞬間でもあります。積み上げてきたキャリアを一度リセットし、まっさらな地図を自分の手で描き直すことが許されるのですから。
プライドを捨てた途端、集団プレーが加速する
企業に入ると、仕事には大きく二つの側面があると気づきます。一つは、個人の力量を試す場。もう一つは、仲間と協力して成果を出す場。博士課程を歩んできた者にとって、前者はお手のものです。孤独な研究生活の中で、誰の助けも借りずに課題を解決してきたのですから。
しかし、問題は後者。「集団プレー」という未知の領域です。ここで多くの博士人材がつまずきます。なぜなら、プライドという見えない鎧が、他者との距離を生んでしまうからです。
“どうして自分より若く、学歴も浅い人に指示されなければならないのか”──その一瞬の違和感が、空気を凍らせます。協調の歯車は小さなプライドひとつで簡単に軋むのです。
私も例外ではありませんでした。入社直後の初期研修で、まさにその罠にはまりました。三週間にわたる新入社員研修。九つのクラスに分かれ、グループワークを中心に進む形式でした。
最初の一週間、私はまったく馴染めませんでした。博士課程を飛び級で修了し、北大を首席で卒業した。その事実が、自分でも気づかぬうちに矜持へと変わっていたのです。同僚が気さくに「ねえ、○○くんさ」と話しかけてくれても、私はまるで宮中の儀式にでも出ているかのように、丁寧語で返していました。いま思い返せば、あれほど面倒くさい人間もいませんね。
グループワークがうまくいくはずもありません。リーダーシップを取ることもできず、発言すれば空回り。一日が終わるたび、どこか取り残されたような気分になっていました。
一週間が過ぎた頃、ようやく悟りました。おかしいのは周囲ではなく、自分のほうだ、と。博士課程で積み上げたものを誇りに思うのは自由。けれども、それを前に押し出すのは傲慢に映る。そこで私は、意識的に“鎧”を脱ぐことにしました。
タメ口で話してみる。相手の冗談に乗って笑う。分からないことは素直に教えてもらう。プライドを捨てて、周りに溶け込んでみる。たったそれだけのことが、場の空気を劇的に変えました。二週目の終わりには、ようやくチームの歯車が噛み合い始めます。三週目には、私の所属グループが、クラス内のコンペで一位を獲得しました。
あの瞬間、心の底から思いました。「プライドなんて、要らなかったのだ」と。
博士課程で得た知識や論理力はかけがえのないモノです。けれども、組織の中で最も強い力とは、人と歩調を合わせる柔軟さなのだと痛感しました。プライドを捨てた途端、世界は驚くほど動き出します。そして、我々博士人材は、初めて「同期」として周りと協働できるのです。
業績は、月日を経ても色褪せない
企業に入ると、あらゆる評価の軸が入れ替わります。それまで積み上げてきた論文業績や学会発表は、職場の中ではほとんど参照されません。求められるのは、成果を生み出すスピードと、チームでの貢献度。かつての栄光は、一瞬で背景に退いていきます。
その現実に、最初は戸惑いました。博士課程での努力が無駄になる気がして、悔しさと虚しさが入り混じる。“これまでの苦労はいったい何だったのか”と、河川敷を歩きながら自問した夜もあります。
時が経つにつれ、分かってきました。努力した痕跡は、どこにも消えていないのだと。
博士課程で培われるのは、論文数だけではありません。課題を見つける洞察力。仮説を構築する論理力。成果を得るまでやり抜く粘り強さ。それに、議論をリードするプレゼンス。どれもが企業で通用する武器であり、時にチームを導く力となります。
博士課程で積み上げた努力は、ワインのようなものではないでしょうか。研究で培われた思考の深さは、社会に出ても決して錆びません。過去の業績は消えやしません。だから、安心してプライドを手放してください。

















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